江戸幕末といえば新撰組。新撰組といえば一番隊長 沖田 総司です。
沖田 総司は若くして剣の才能が抜群、人懐っこい人柄で新撰組局長 近藤 勇や、副長 土方 歳三からも慕われていました。
しかし病弱の為、なかなか第一線で活躍ができない場面が多かった人物です。
聞いたことある人も、ない人もこの記事を読めば、どのようなことをした人物なのかを知っていただけると思います。
様々な派閥が存在し、大荒れの江戸幕末で最期の最期まで幕府に忠義を尽くしたことで、現代になっても大人気の新撰組。
沖田 総司や新撰組を知る上で、江戸幕末の日本の状況も簡単に知っていただく必要がありますので、日本を取り巻く状況との関わりも同時に見ていきたいと思います。
大荒れの日本の幕末と、新撰組並びに沖田 総司の生涯を見ていきましょう。
Contents
沖田 総司の年表
まずは沖田 総司の年表を見てみましょう。
誕生が1842年説と1844年説があります。今回は1842年出生で年表をすすめていきます。
1842年 | 0歳 | または1844年誕生説もあり。誕生日は不明。現在の東京都港区で誕生したとされている。 |
---|---|---|
1846年 | 4歳 | 父:勝次郎が死亡。 |
1851年 | 9歳 | 早くも剣術の才能を見出される。近藤 周助(近藤勇の養父)の内弟子になり、その後は試衛館の塾頭になる。 |
1853年 | 11歳 | 浦賀沖(神奈川県横須賀市)にペリー率いる蒸気船が来航する。 |
1858年 | 16歳 | 井伊直弼とハリスが日米修好通商条約を締結する。 |
1860年 | 18歳 | 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される。 |
1862年 | 20歳 | 将軍:徳川 家茂の上洛にて、将軍警護の名目で浪士を募集。試衛館メンバー(近藤、土方、沖田など)も参加する。 |
1863年 | 21歳 | 浪士組結成のため上洛するが、この募集が実は「尊王攘夷運動」が目的と判明し、試衛館メンバーは攘夷派と分裂し京都に残る。 |
同年 | 21歳 | 会津藩主:松平 容保の力を借り「壬生浪士組」を結成。その後八月十八日の政変を契機に、新撰組という名前を与えられる。 |
同年 | 21歳 | 以前から粗相が悪く逮捕状まで出ていた筆頭局長の芹沢 鴨の暗殺を成し遂げる。 |
1864年 | 22歳 | 池田屋事件で近藤らと池田屋に攻め込むも、戦闘中に喀血に戦線離脱する。 |
1865年 | 23歳 | 総長:山南 敬助が脱走。追っ手として差し向けられ、山南の切腹の介錯を努める。 |
1866年 | 24歳 | 薩摩藩と長州藩が薩長同盟を締結。 |
1867年 | 25歳 | 参謀 伊東 甲子太郎の脱退。沖田は病の悪化により第一線で活躍することが困難となる。 |
同年 | 25歳 | 徳川慶喜が大政奉還する。 |
1868年 | 26歳 | 鳥羽・伏見の戦いに向かう道中に倒れて参戦を断念する。 |
同年 | 26〜27歳? | 幕府の医師:松本 良順にて千駄ヶ谷の植木屋に匿われたのち、約半年後に若くして死去。(出生年が定かではないので、享年は諸説あり。) |
沖田 総司とはどんな人?
沖田 総司は、江戸の白河藩屋敷(現在の東京都港区)、1842年(天保13年)(諸説あり)沖田 勝次郎の長男として誕生します。生年は1844年(天保15年)説もあり、生まれた日付なども不明です。
幼名は宗次郎。母の名前も不明。夏に生まれたことは分かっているそうです。
総司が3歳頃に、父の勝次郎が死去。その後は姉が親代わりとして育ててくれました。
9歳になる頃、新撰組局長:近藤勇の養父である近藤 周助が創設した江戸にある道場、試衛館で総司は周助の内弟子となります。総司は早くも剣術の才能を開花させ、若くして試衛館の塾頭を務めるほどの実力を持っていました。
この試衛館には後々の新撰組の幹部となるメンバーが顔を連ねており、土方 歳三、沖田 総司、山南 敬助、永倉 新八、藤堂 平助、斎藤 一等がいたとされています。
このメンバーが日本の歴史を大きく変えていくことになるとは、この頃は誰も思っていませんでした。
幕末の背景
江戸幕末の話をするために、この時の日本の大まかな状況を確認してみましょう。
1853年に日本中を震撼させた大事件が起こります。浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)にマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の蒸気船が停泊します(黒船来航)。
背景としては、イギリスの産業革命によって、欧米の工場や会社は夜遅くまで稼動するようになります。そのランプや潤滑油の原料に、鯨の油を使っていました。
欧米諸国は日本沿岸を含み、世界中の海で捕鯨を行っており、その停泊地として日本に開国を迫ったという経緯がありました。
その前からロシアやイギリスやオランダなど、産業革命によって蒸気船を手に入れた欧米諸国は日本へと数回訪問していたのですが、最後に訪れたアメリカのペリーによって、日本は強制的に開国をせざる得なくなってしまいます。
この開国騒動から約5年後の1858年に、幕府の大老 井伊 直弼と米国総領事ハリスは日米修好通商条約を締結させます。
内容は・・・
・日本国内で数カ所の港を開くこと。(神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の開港)
・外国人居住地を定めること。(開港地にしか外国人は住めない)
この条約は日本にとって不平等な部分がありました。
・アメリカの治外法権を認める。(外国人を日本の法律で裁けない)
・関税自治権を日本で持たない。(関税を日本側だけで決められない)
この2つの内容で日米修好通商条約は不平等条約と言われています。また、欧米列国と日本の間に、何か揉め事があった場合は、アメリカもそこに仲介するという内容も含まれていたようです。
しかも朝廷からまだ許しを得ていない状態で江戸幕府が勝手に結んでおり、この条約締結が江戸幕府の信用問題低下の原因として挙げられます。
そんな中、大きな事件が起こります。
1860年 江戸城の桜田門外で水戸藩脱藩者17名、薩摩藩士1名によって井伊 直弼が暗殺されます(桜田門外の変)。
原因は井伊 直弼が強引に決めた次期将軍の後継問題や、先に述べた日米修好通商条約です。
直弼は、各地方の有能な藩士たちの一橋 慶喜(徳川 慶喜)推薦を無視し、自分が支持していた徳川 家茂を次期将軍を強引に後継ぎにしたり、日米修好通商条約を朝廷の承諾を得ていないまま進めるなどの行為が、暗殺に至ったの大きな原因として考えられます。
この事件によって、江戸幕府は大きなリーダーを失ってしまうのです。
長州藩
長州藩とは山口県を中心とした中国地方の藩です。藩主は毛利家。主に尊王攘夷運動の拠点となっており、黒船来航後の開国といった流れに強い危機感を抱き、当初は「朝廷を尊重し(尊王)、外国船は追い払う(攘夷)」を掲げいたが、外国船を追い払う(攘夷)思想から、江戸幕府を倒そうという討幕運動の考えへと発展します。
その為各地でテロなどの行為を繰り返しており、非常に危険な派閥へと変化していきます。
薩摩藩
薩摩藩とは鹿児島県を中心とした九州地方の藩です。藩主は島津家です。薩摩藩は最初、公武合体という幕府を支援したい方の派閥でした。
薩摩藩と幕府は協力して、尊皇攘夷派を京都から追放しようという動きがこれから出てきます。この出来事が壬生浪士組として使われることとなった近藤達に大きな影響を及ぼします。
非常に簡単ではありますが、江戸幕末の流れを説明させていただいた上で、江戸の小さな道場 試衛館に話を戻していきましょう。
壬生浪士組の誕生
1863年、総司が21歳になる頃に江戸幕府14代将軍 徳川 家茂が京都に上洛する際の、将軍警護のために身分を問わず、将軍を護衛する兵士(浪士組)を募ります。この募集を知り、試衛館のメンバーもこの浪士組に参加すべく京都へ向かいます。
しかし、浪士組の考案者である清河 八郎は、将軍警護とは表向きで、真の目的は尊王攘夷運動を先頭切って進む者として使いたく、浪士組を募っていたのです。
この思惑を知った近藤 勇達は猛反発。無論、幕府側も激怒します。
幕府は直ちに京都へ向かった浪士組の希望者を江戸まで帰還させようとしますが、近藤 勇達は清河 八郎が率いる尊王攘夷派と分裂した上で、この場所に残り何かのチャンスを待つことにします。よって近藤たちは江戸帰還ではなく、京都に残ることを決断したのです。
そんな中、幕府は治安悪化を懸念し京都の治安維持のために京都守護職を新設します。任命されたのが会津藩主である松平 容保という現在の福島県の殿様です。
主な仕事は京都の治安維持と二条城の警備を目的とし、増え続ける反幕府勢力を鎮圧させるよう命じました。
容保は江戸帰還を命じられた浪士組の内、京都に残ることを希望している近藤 勇たちを京都守護職で一旦預かった上で、京都の治安維持のために使ってやろうと考えました。
それが壬生浪士組という新撰組の前身となる団体が誕生します。
もちろんこの団体には、沖田 総司をはじめ土方 歳三や山南 敬助や永倉 新八など試衛館の面々も所属することになります。
芹沢鴨の登場
主役の沖田 総司から話が逸れていると感じるかもしれませんが、芹沢 鴨も新撰組とは非常に重要な人物です。
実力は新撰組初代局長に昇り詰めるほどで、近藤 勇と同等の権力者です。今後沖田 総司とも大きく関わってくるので、この章では少しだけ紹介させていただきます。
元々、芹沢は尊王攘夷思想を持っており、以前は、水戸藩(現在の茨城県)の尊王攘夷派の団体(天狗党)に所属していました。しかし非常に横暴な性格の持ち主で、粗暴な振る舞いが多発し、加えて酒癖も悪いことから藩庁をひどく悩ませていました。
ある時、攘夷活動の中で、不法な資金集めがバレてしまい幕府に訴えられ、捕縛された後に入牢します。処刑されるのを待つ身となるも恩赦によって釈放されます。
その後は近藤勇達と同様に、清河 八郎が設立した浪士組に募集に参加し、試衛館のメンバーと出会ったという経緯があります。
芹沢も近藤勇達と同じく、京都守護職である松平 容保の力によって、京都の治安維持の任務をもらい、近藤派と芹沢派が壬生浪士組として京都の治安を守る活動を開始していきます。
八月十八日の政変〜「新撰組」の誕生
1863年8月18日に、公武合体派が尊王攘夷派を京都から追放した政変のことです。
主に長州藩の志士達でしたが、尊皇攘夷運動の一環で過激な行動が目立ってきます。
このいわゆる反幕府の志士(尊皇攘夷派、主に長州藩)を、会津藩と薩摩藩の公武合体派が協力して京都から追放します。この事件をきっかけに、尊皇攘夷派は討幕計画を急速に進めていくことになります。
この政変には、会津藩主で京都守護職の松平 容保も協力し、近藤派や芹沢派が加入した壬生浪士組も御所へ出動を命じられます。
壬生浪士組は主に御所の御花畑門の警備を任されました。
結局は長州藩からの襲撃はありませんでしたが、この御所警備の功績が会津藩から非常に高く評価され、新しく新撰組という名前を与えてもらいます。
メンバーは非常に喜んだと言います。武士に憧れ続けた少年達ですから。新撰組になったからには、もっと功績を積んで世間から認められなくてはいけません。その中の政策として、局中法度という新撰組内部の厳しい5つの掟を作りました。
一、士道ニ背き間敷事(武士道に背く行動をしてはいけない。)
一、局ヲ脱スルヲ不許(新撰組は一度入ったら辞めることができない。)
一、勝手ニ金策致不可(勝手に借金を作ったり、人の金を奪う行為をしてはいけない。)
一、勝手ニ訴訟取扱不可(勝手に訴訟を起こしてはいけない。)
一、私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはいけない。)
右条々相背候者切腹申付ベク候也(この5ヵ条を守れなかった者には切腹を命じる。)
このように非常に恐ろしく厳しい内容でした。
この局中法度は壬生浪士組時代に近藤や芹沢が中心になり、ベースの内容は作られたとされております。新撰組になったからには、こういったルールをしっかり守っていかなければいけないという強い思いが込められています。
新撰組の羽織は浅葱色のダンダラ模様が描かれていることは有名ですよね。
この羽織は芹沢が考案したとされているようです。芹沢は歌舞伎の演目の一つである忠臣蔵の大ファンで、そこに登場する赤穂浪士をイメージして、この羽織のデザインを思いついたそうです。この羽織には赤穂浪士への尊敬の意味が秘められているのです。
芹沢の暗殺
新撰組として朝廷や幕府からも認められ始めたころ、芹沢の素行が悪化してきます。
芹沢は元々酒乱の気質でしたが、その他にも商家や一般人に不当な金銭を要求、新撰組としての役割を果たさずに遊郭で豪遊、お気に入りの遊女へ乱暴したりなど新撰組で名を馳せても、悪の性分は変えることができず、酒に酔うとより一層ひどい行為を行っていたのでした。
近藤達は芹沢の素行の悪さを、朝廷や幕府から目を付けられない内に、どうにかすることは出来ないものか考えるようになります。京都守護職の松平 容保にも承諾を経て、近藤勇達は、長州藩からの襲撃を装い、芹沢暗殺を企てます。
1863年9月、京都の八木邸という新撰組の屯所として使われていた邸宅で、芹沢はいつものように、芸妓達とどんちゃん騒ぎをしておりました。そこに集まったのは近藤派である土方 歳三、沖田 総司、山南 敬助の3人です。
芹沢が酒に酔い、愛人お梅と一緒に就寝したのを確認した3人は、一気に芹沢を襲撃します。まずは愛人と芹沢派の平山という男を殺害し、その後とび起きて逃げ回る芹沢でしたが、呆気なく土方に殺害されてしまいます。
近藤勇と同等なポジションにいた芹沢 鴨を失った新撰組でしたが、この後も彼らの活躍は続きます。
池田屋事件〜蛤御門の変
芹沢暗殺を成功させた新撰組でしたが、また大きな事件が起きます。
八月十八日の政変によって反幕府の志士(尊皇攘夷派、主に長州藩)が京都から一斉に追放されましたが、長州藩はどうにか巻き返しを図ろうと過激派の浪士たちを京都に潜伏させます。
この流れの中である恐ろしい計画を耳にします。
京都の御所周辺を放火し京都守護職である松平 容保を暗殺。その騒動の中で孝明天皇を誘拐し長州近郊に連れ帰り、最終的には長州藩を官軍(新政府側軍隊)にする。
新撰組は過激派浪士を捕らえて尋問しこの恐ろしい計画を聞き出し、一同はこの計画の阻止にあたります。
1864年7月8日に京都の旅館 池田屋で長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派の浪士たちの会合があると聞きつけた新撰組は襲撃の計画を企てます。
なぜこんな情報を手にできたかというと、新撰組の内部で違法行為が行われていないか調査する幹部だった副長助勤 山崎 丞が、数日前からこの池田屋に薬の商人に化けて泊まり込でいたのです。その中で山崎が池田屋で浪士達の会合があることを突き止め近藤に伝達したのです。
会合の当日、夜更け22時に決行を迎えます。新撰組のは数名だけが乗り込み、残りは屋外で待機します。
最初に乗り込んだメンバーは近藤 勇、沖田 総司、永倉 新八、藤堂 平助 等でした。この池田屋の戦闘中に、天才的な剣術の持ち主である沖田 総司が喀血し戦線離脱を余儀なくされます。刀で切られたわけじゃないのに、血を吹く沖田を見て驚いた土方が駆け寄ります。
この先沖田はどんどん病によって身体を蝕まれていくことになるのです。
浪士達の刀がボロボロになるくらいの非常に激しい戦闘の中で、戦いの行方が新撰組側に有利に傾き戦局を斬るから捕縛へと変更します。その結果、尊王攘夷派の浪士数名を捕縛に成功します。
捕縛を逃れた尊王攘夷派の浪士たちも、長州藩近郊まで逃げるも追手に捕まり捕縛されます。よって天皇誘拐+御所放火計画を未然に防ぐことに成功した新撰組の名は、より一層世に名を轟かすことになり、新撰組に入りたい若者で溢れかえります。
新撰組の幹部達は希望者達と面接をし、新撰組をより増強させていこうとします。
変わって長州藩はこの事件をきっかけに激怒します。兵を増やし会津藩や江戸幕府への仕返しを企てます。
1864年8月長州藩が京都へ向けて出兵。八月十八日の政変〜池田屋事件によって、長州藩の勢力は非常に弱くなっており、その回復のために京都御所外郭の西側にある門 蛤御門付近で戦います(蛤御門の変=禁門の変)。長州藩は大砲を使うなどし、京都の街は至る所で火災が勃発し火の海となります。会津藩と薩摩藩も駆けつけ、非常に激しい戦闘となったものの、またも長州藩が敗北します。
長州藩はこの戦争をきっかけに、会津藩や薩摩藩に対して大きな憎しみを抱くようになります。
伊東 甲子太郎の登場〜総長 山南 敬助の逃亡
伊東 甲子太郎という男が、 藤堂 平助の紹介で新撰組に加入します。甲子太郎は、近藤勇達とは別の流派で、江戸深川佐賀町の旗本伊東 精一に北辰一刀流を学び、家督を継ぐほどの腕前(非常に剣術の才能を持ち合わせているという意味)。加えて水戸学という学問を学んでいたという文武両断の持ち主でした。
甲子太郎は剣の実力も頭脳も持ち合わせていたため、総長 山南 敬助の一つ上の役職である参謀という立場にまでスピード出世します。
しかしどちらかというと勤王の思想(天皇を尊ぶ思想)を持っており、バリバリの尊王攘夷派であった為、たびたび新撰組と意見の食い違いが増えてきます。
そんな中1865年2月、山南が屯所から脱走します。
新撰組の厳しい掟である局中法度の中に、局ヲ脱スルヲ不許(新撰組は一度入ったら辞めることができない。)とあります。そう、新撰組はやめられないのです。
この掟によると総長 山南の逃亡は死罪に値します。
理由は副長 土方とうまが合わなかったり、病気のことや、屯所の西本願寺移転問題(今までの屯所が、新撰組の人数増加により手狭になったので西本願寺へ移転を考えた近藤、土方に対し山南は賛成できなかったらしい)など色々と考えられたが、決定的な理由がわからないままでした。
近藤は沖田 総司に山南を探すよう命じました。
その後、滋賀県あたりで沖田によって山南はいとも簡単に捕縛され、近藤達の元に連れてかれ監禁されます。
その後山南は逃亡せずに掟の通り死罪を受け入れました。切腹の介錯は沖田 総司を希望し、総長 山南 敬助は享年33歳でこの世を去ることになりました。
薩長同盟の締結により大きく変わる日本
1866年1月に締結された薩摩藩と長州藩による政治的、軍事的同盟です。
この同盟の何が大事件かと言いますと、敵対していたはずの薩摩と長州が手を組んだことで、ついに討幕が現実のものになっていきます。
簡単な経緯としては、薩摩藩は公武合体派を進めており、どちらかというと佐幕でした。対して長州藩は尊王攘夷の拠点で討幕派。蛤御門の変をきっかけに薩摩や会津と対立。朝廷からも睨まれてる立場にあり孤立しておりました。両藩はまさに水と油の状態だったのです。
また薩摩の財政は潤っており、武器も海外や密貿易によって武器を増やすことが可能でした。長州は国内外から攻撃を受け、まさに四面楚歌状態。財政難で藩の持続も危うい状況でした。
幕府は薩摩の勢力拡大を恐れて長州征伐に向かわせましたが、薩摩は長州征伐の際の武器消費や財政難になることを懸念すると共に、長州征伐を成功させた末には、幕府の次のターゲットを薩摩に切り替わるであろうことを分かっていました。また薩摩は薩英戦争というイギリスと薩摩藩の間で起った戦争によって、討幕も視野に入れるようになっていきます。
そんな二つの藩の間に入り和解を図ろうとしたのは、土佐を脱藩した浪士 中岡 慎太郎でした。元々中岡は尊王攘夷思想がありましたが、雄藩同士(権力のある藩)の無益な争いは不要であると考え、雄藩同士が力を合わせて武力で討幕する方法を打ち出します。
この考えに賛同し力の限り動き回ったのが、有名な坂本 龍馬でした。
坂本 龍馬と中岡 慎太郎の仲介によって、敵対していたされていた薩摩藩(西郷 隆盛)と長州藩(木戸 孝允)は薩長同盟(薩長同盟六ヶ条)を締結します。非常に簡単ですが「どんなことがあっても、我々二つの藩は協力して江戸幕府と戦いましょう」という内容です。
薩摩藩は幕府から命じられた長州征伐での財政難を回避できますし、長州藩は薩摩藩を経由して武器を得られ、孤立解消という、それぞれ同盟を組むことによってメリットがあり討幕という目的へと一気に進められるものでした。
またこの時期に孝明天皇が崩御します。この同盟締結と天皇崩御により、日本を取り巻く状況は180度変わってしまいます。
新撰組の行方もだんだん危うくなっていくきっかけの出来事でした。
油小路事件
薩長同盟の締結は、新撰組内部にも大きな影響をもたらしてきます。1867年、文武両断 エリートの伊東 甲子太郎が新撰組から脱退します。
佐幕寄りの新撰組と勤王思想の甲子太郎は、段々とうまが合わなくなってきます。
薩摩の動向探索と朝廷から仕事を請け負ったという理由で、新撰組脱退の承諾を得ようとします。
そして脱退した甲子太郎は御陵衛士という新しい団体を作ります。この団体には甲子太郎の他に藤堂 平助や斎藤 一など、新撰組15名ほどが加入を希望し、脱退していきます。
御陵衛士の表向きの仕事は孝明天皇の陵を警護することでしたが、真の目的は局長 近藤 勇の殺害でした。しかし近藤 勇は焦ることはありませんでした。
近藤は御陵衛士の中にスパイを潜り込ませており、その者から情報を得ていたのです。
その者とは甲子太郎と共に新撰組を脱退した15名の中の一人であった斎藤 一です。
斎藤は近藤から、甲子太郎の動向を監視するよう命じられたスパイだったのです。よって近藤暗殺計画の情報を掴んだ斎藤は、即座に近藤本人にその内容を伝えにいきます。
近藤暗殺を知った新撰組幹部は、伊東 甲子太郎の逆暗殺計画を企てます。
まずは近藤が甲子太郎に一緒に酒を飲みに誘います。その帰り道、待ち伏せしていた新撰組に甲子太郎は殺害するという計画でした。
そして計画どおり近藤は酒に酔った甲子太郎を誘き寄せることに成功し、新撰組の土方や沖田に殺害されてしまいます。
しかし新撰組は殺害後に甲子太郎の遺体を、あえて路上に放置し立ち去ります。次は御陵衛士達も殺害し計画完了です。御陵衛士達が甲子太郎の遺体を発見し、驚いてその場に集まってきます。そこに新撰組が現れて御陵衛士達との乱闘が始まります(油小路事件)。
そして数名は取り逃したものの、伊東 甲子太郎や藤堂 平助など含む数名の御陵衛士達がそこで死亡しました。
大政奉還と王政復古の大号令
1867年15代将軍 徳川 慶喜が政権を朝廷に返却するという宣言をします(大政奉還)。元々平安時代終わりから、武士によって政治が行われてきましたが、黒船来航後、日本は開国をし日米修好通商条約を締結してから攘夷派や開国派など日本国内が様々な思想で割れてきている状態でした。その後藩同士の内乱が起こり、攘夷派は討幕派へと変わり、薩長同盟を締結したこともあり、いよいよ江戸幕府の存続も厳しくなってきました。
そこで徳川 慶喜は大政奉還をして、政権を形上朝廷に返還し約260年間続いた江戸幕府を終わらせようとしました。しかし実際には、政治の権力は徳川家をトップで続けていこうと幕府側は考えていました。
「それは困る!もう徳川家の権力体制はこりごりだ!」という討幕派の藩が打ち出した対抗策が王政復古の大号令でした。
「徳川家がトップのままでは欧米諸国に対抗できる強い国を作ることはできない!」
「徳川家を日本の政治の世界に一切介入できないようにしよう。徳川家を排除して全く新しい政府を作るんだ!」
という討幕派の強い意志が込められた宣言でした。
王政復古の大号令は「幕府の廃止」「摂政や関白の廃止」「京都守護職の廃止」また、幕府の領地も撤廃なども含まれていました。要は「日本の政治は天皇を中心とするものに戻した!」という宣言をし討幕派の藩たちは大政奉還に対抗します。
これにより旧幕府側はついに堪忍袋の尾が切れてしまいます。
この大きな転換期により、これから新撰組の命運が揺らぎ始め、団体存続のピンチと大きな戦争が待ち構えているのです。
鳥羽・伏見の戦いと新撰組
1868年1月に旧幕府軍 対 官軍(薩摩藩、長州藩など新政府軍)で争った内乱です。
薩摩藩が討幕を推し進めるために、過激なテロ行為をし旧幕府側を挑発します。その挑発に乗ってしまった旧幕府軍は、江戸にある薩摩藩邸を襲撃したことをきっかけに、鳥羽・伏見の戦いが始まります。
新撰組も旧幕府側として参加しますが、長年病に苦しめられてきた沖田 総司がついに肺結核だと判明しもう長く生きられない、ひとまず身体を休めるよう離脱します。
近藤 勇も伏見奉行所へ帰る道中、故伊東 甲子太郎のかつて仲間だった御陵衛士の残党に肩を撃たれるという事件が起きます。当然戦に参加できない為、この戦いには沖田と近藤が不在の状態で新撰組は挑みにいきます。
戊辰戦争の引き金となる戦いが始まりました。
また鳥羽・伏見の戦いの最中に、徳川 慶喜は大阪城から江戸に帰還してしまいます。当初から慶喜はこの戦いに対して乗り気ではなかったようで、あまり新政府軍と揉め事を起こしたくなかったのです。しかし旧幕府軍の中には、甲府(現在の山梨県)の城を守ろうと再起をはかろうとする者たちも現れます。その代表格が新撰組でした。
旧幕府側は、新政府軍とあまりトラブル起こしたくないという本音と、新撰組の幕府に忠義すぎる想いと厳しすぎる武士道が、ここにきて旧幕府のトップ層からも嫌われてしまいます。
正直なところ新撰組が江戸にいられては、新政府軍からこちらの印象が悪くなる可能性もあり、甲府城を官軍から守るという名目で出陣させますが(甲州勝沼の戦い)、もう君達は江戸にいらないという意味合いが込められていました。
この頃は新撰組から甲州鎮撫隊と名前を変えられてしまい、甲府で新撰組ということをバレないようにされてしまいます。
甲府で待ち構えていたのは土佐藩の板垣 退助率いる官軍(迅衝隊)が約1200人。対する旧幕府軍が約200人ほど。板垣 退助は甲州勝沼の戦いの前に、甲府城の無血開城に成功しており、 甲州鎮撫隊が到着した時には、甲府城に入ることすらできなず、新式装備の新政府軍になすすべもなく敗退。江戸に撤退します。
また、徳川 慶喜は薩摩と長州に降伏して江戸城を無血開城し、江戸幕府は完全に消滅します。
新撰組の最期
近藤 勇は大久保 大和と改称します。これは新しい部隊の局長として再起をかけるためと言われています。甲州鎮撫隊は下総国流山(現在の千葉県流山市)に駐屯。次は会津に行き、そこで勝てばやり直せるなどの策を練っておりました。しかしその計画が官軍側に漏れ、流山の屯所が包囲されてしまいます。
近藤は自害しようとしますが土方の強い希望で阻止され、大久保 大和であることを主張し続けたまま官軍の捕虜となります。
出頭した近藤はしばらく大久保 大和として身柄を拘束されましたが、元新撰組幹部の御陵衛士に所属していた者がおり、大久保 大和が近藤 勇であるとバレてしまいます。
大悪党 新撰組の局長は、切腹による自害を許してもらえる訳もなく、近藤 勇は斬首の刑となり、晒し首となります。武士になりたくて忠義を貫いた近藤 勇の死に様は、あまりにも切ないものでした。
この約2ヶ月後、沖田 総司がこの世を去ります。
鳥羽・伏見の戦いのころから危篤状態が続き、江戸の千駄ヶ谷で幕府の医師である松本 良順によって匿われていましたが、ついに肺結核の悪化により力尽きてしまいます。
沖田は新撰組での最後の戦いに殆ど参加できず、また近藤のことをずっと心配し近藤の死を知らぬまま天に召されたといいます。
残りは鬼の副長 土方 歳三と新撰組残党は、官軍に北へ北へと追い詰められていきます。
宇都宮城の戦い→会津戦争と続き、ついには北海道まで追い詰められてしまいます。
土方は最後、北海道函館市の五稜郭に立て篭もり新政府軍を迎え撃ちます(箱館戦争)。
この戦いでついに土方 歳三が相手の銃弾を受け戦死。即死だったそうです。
新撰組含めた旧幕府軍は箱館戦争で全滅します。この一週間後に幕臣である榎本 武揚が降伏し、長きに渡って新政府軍と旧幕府軍で争った戊辰戦争が終結しました。
そして日本はこれから海外に通用する強い国家にする為に、一刻も早く近代化し欧米列強国と共に渡り歩いていかなければいけないと、日本は急速に変化します。
洋服を着て、食べ物もパンやパスタなど洋食を食べるようになります。
建物も洋風建築へと変わり、街並みも江戸の頃と全く違う世界へと生まれ変わるのです。
廃藩置県を取り入れて日本の軍隊をより強固にしていこう。欧米列強と肩を並べるんだ。全ては日本を欧米列強から守る為でした。しかしこの転換が、今後の日本を大きな戦火の道へと導いていくこととなり、世界と大きな戦争を仕掛けていく国に成長していくのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
沖田 総司並びに新撰組は江戸の幕末に武士に憧れて武士を夢見て、江戸幕府に忠義を尽くした男達でした。最期は皆散り散りになり、新しい時代には残れずに非常に切ない死でしたが、現代でも映画やドラマでも起用される大人気なグループです。
非常に簡単な内容ではありますが、少しでもこの記事を見て新撰組を知っていただくきっかけになればうれしいです。