日本史上で、知らない人はいないほどの有名人。
「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」でお馴染みの豊臣 秀吉です。
織田 信長からも、サルという愛称で可愛がられていたことは、有名な話ですよね。
戦国時代に大活躍した彼は、生まれが百姓で当時は身分が低い家柄でした。
そこから戦国大名にまでのぼりつめ、朝廷から関白という称号を与えられ、秀吉に敵う者は他にいない。
天下統一を実現した直後、この世を去ることになります。
戦乱の世の中で天下の大出世を遂げた彼の生涯を、解説していきたいと思います。
Contents
豊臣秀吉の年表
豊臣 秀吉の生涯を年表で見てみましょう。
1537年 | 0 歳 | 尾張の国(現在の愛知県)で百姓の子として生まれる。 |
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1554年 | 17歳 | 織田 信長の小者として仕える。 |
1561年 | 24歳 | 浅野家の養女のねねと結婚する。 |
1566年 | 29歳 | 墨俣一夜城を完成させ、手柄を挙げ始める。 |
1573年 | 36歳 | 武功を重ね、名を羽柴 秀吉に改める。 |
1577年 | 40歳 | 信長からの命で、中国地方を攻める隊長に任命される。 |
1582年 | 45歳 | 本能寺の変で信長が死去。中国大返し、山崎の戦いにて明智 光秀討伐に、成功する。 |
1583年 | 46歳 | 賤ヶ岳の戦いで、柴田 勝家に勝利する。 |
1585年 | 48歳 | 関白に任命される。四国を平定する。 |
1586年 | 49歳 | 太政大臣に就任し、名前を「豊臣 秀吉」に改める。 |
1590年 | 53歳 | 関東を平定。同時に東北の大名も家来にする。 |
1592年 | 55歳 | 朝鮮出兵を開始するが、成果得られず退却。(文禄の役) |
1597年 | 60歳 | 再度、朝鮮出兵を試みる。(慶長の役) |
1598年 | 61歳 | 病に倒れ死去。 |
豊臣秀吉とはどんな人?わかりやすく解説します
豊臣秀吉は、尾張国(現在の愛知県)1537年(天文6年)2月6日に、父親は木下 弥右衛門、母親はなか(後の大政所)の間に誕生したとされています。
幼名は「日吉丸」とあるが、百姓の子を「〇〇丸」と立派な名前を付けたのかが、定かではないようです。
秀吉の家は、もともと貧しい身分の家柄だったことは有名ですが、父親は百姓をしながら、織田 信秀(信長の父)の足軽を務めており、ある程度は安定した生活を送っていたことが推測されます。
父親の弥右衛門は、秀吉が7歳の時に病死するため、母親のなかは、築阿弥(竹阿弥)という人物と再婚します。その後は秀吉そして兄弟の秀長、旭姫の父は築阿弥とされています。
秀吉は幼少の頃から、あだ名が「小猿」その後、成人し大人になる頃には「猿」や「禿鼠」と言われていたようです。
顔が猿に似ていたというよりも、木から木へひょいひょい渡っていくように身のこなしが軽やかだ、非常に物事を進めるのがスピーディーだという例えだったことも考えられているそうです。
鼠は秀吉の眼光が鋭かった例えであるという記録も残っており、猿や鼠は容貌いうよりも、秀吉の才覚に対しての印象だったことが考えられます。
表の性格は、明るく陽気なひょうきん者とされ、年長者から可愛がられる節もあったみたいですね。裏の性格は非常に賢く、上昇志向が強い男性だったと言われています。
17歳ごろから織田 信長の小者として仕えます。
それまでは父が亡くなった後から放浪し始め、途中松下 加兵衛の家来として、仕えたこともありましたが、なかなか馬が合わずに辞めてしまい、また放浪。最終的に織田 信長に行き着くのです。
24歳頃に浅生 長勝の養女で、杉原 定利の娘のねねと恋愛結婚します。
キューピッドは信長だったそうです。
そして30歳前後から「木下 藤吉郎秀吉」と名乗り、織田 信長の有力な家臣として戦などで活躍し始めるのです。
秀吉は信長が脱いだ草鞋を懐で温めていたという有名な話があります。温めていた場所が、懐だったのか、背中だったのかは定かではないようですね。
最初は何故か温かくなっている下駄に対し、不審に思った信長は
「お前この下駄の上に腰掛けていただろう!」と怒り狂い、秀吉を杖で打ったといいます。しかし、秀吉は頑なに否定し「寒夜なので足が冷えると思って、背中で温めていました」と主張します。
信長は「その証拠を見せろ」と問いただしたところ、衣服を脱いだ秀吉の背中には、くっきり下駄の鼻緒の跡が残っていたといいます。
それを見た信長は非常に感動し、すぐさま彼を草履取りの頭にしました。
墨俣一夜城
墨俣城は、岐阜県大垣市にあった戦国時代の日本の城です。
この墨俣城こそが木下藤吉郎こと羽柴 秀吉が小者から出世するきっかけとなった出来事が起きます。
1560年、桶狭間の戦いで今川 義元に勝利した織田 信長は、美濃(現在の岐阜県)の齋藤氏の攻略に乗り出します。
美濃の大名である斎藤 龍興の拠点は、信長も攻略に失敗した難攻不落の城である稲葉山城(岐阜城)でした。
信長はこの城を落とすため、家臣らに交通の要衝である墨俣に出城を築かせました。
信長の命を受けて、墨俣城を築くという難事業をやったのは、当時新人だった木下 藤吉郎です。自ら立候補をし、川の上流から木材を流し下流で築城を進めるという作戦で、試行錯誤を重ねながら一夜で築城したという逸話が残っています。
この頃から名を羽柴 秀吉と改めます。
本能寺の変と明智光秀の討伐
1582年6月21日の朝、京都の本能寺に宿泊中の織田 信長を家臣の明智 光秀が、突如謀反を起こし襲撃します。
信長はこの日は100人程の従者しか連れていなかったといいます。
この絶好の機会を狙った光秀。1万人以上の軍勢に囲まれた信長は僅かに防戦しましたが、為す術はなく追い込まれた末に自害します。その後本能寺は焼失してしまいます。
同じ頃、羽柴 秀吉は中国地方の毛利氏を攻めていました。
その最中に織田 信長の訃報が届き、すぐさま攻めていた毛利氏と和睦を成立。毛利氏に信長の訃報を気付かれぬよう猛スピードで京都へ戻ります。
そして秀吉はわずか一昼夜で、備中高松城(岡山県岡山市)から姫路城(兵庫県姫路市)まで、一気に進軍しました。これが有名な中国大返しです。
本能寺で信長を攻めた光秀が警戒していたのは、越中(富山県)で上杉家と戦っていた信長の重臣の柴田 勝家でした。しかし秀吉軍の早すぎる接近に、十分な戦闘準備ができずに決戦を迎えることになります。これが山崎の戦いです。
この戦いで光秀軍は、秀吉軍の約4万人の軍勢には敵わずに敗戦します。
その後光秀は自害。
清洲会議と賤ヶ岳の戦い
1582年7月16日、清洲城(愛知県清須市)にて、本能寺の変によって自害した信長の後継者を決める為に、開かれた会議です。
出席者は、信長の重臣である柴田 勝家、丹羽 長秀、池田 恒興、羽柴 秀吉の4人が挙げられます。しかしこの会議がきっかけで、大きな戦いに発展するのです。
・柴田 勝家→織田 信孝 (信長の三男)を推薦。
・丹羽 長秀→柴田 勝家と同じく信孝を推薦。
・池田 恒興→勝家と秀吉の間で中立を保つ。
・羽柴 秀吉→三法師。後の織田 秀信(織田 信忠の子。信長の孫)を推薦。当時はまだ3歳でした。
最終的に、秀吉が推薦した三法師(織田 秀信)が後継者として選ばれることになります。
そして以前から、あまり仲が良くなかった勝家と秀吉が、清洲会議以降もさらに対立しています。
事件は、信長の葬儀で起こります。
喪主を務めたのが後継者の三法師ではなく、信長の四男の羽柴 秀勝(秀吉の養嗣子)であったことに勝家は激怒。そこから秀吉を完全に敵視するようになります。
その流れから1583年に柴田 勝家vs羽柴 秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。
この戦いで秀吉軍が勝利を納めます。
勝家は本拠地である福井県福井市に退却し、自害します。
関白へ任命され太政大臣へ
まずは関白とは何かと言いますと
天皇にかわって政治を行うことができる最高位の役職です。朝廷(政府)の中で、関白とは天皇の次に最高な位なのです。
なぜ農民の出だった秀吉が、関白という座にまで上り詰めることができたのか。
関白になれるのは、代々五摂家(近衛家、九条家、一条家、二条家、鷹司家の五つの家の事)と呼ばれる名門公家(貴族)が、交代で就任していた位です。どんなに武功を挙げ、財力があっても農民出の秀吉は関白にはなることはできません。
この時秀吉は、元関白だった近衛 前久の養子となり、近衛家の人間になることで関白に就任しています。一説には騙し取ったという説もあるみたいですが、秀吉は一気に朝廷にも近づき、のちに太政大臣に就任します。
朝廷から豊臣という姓を賜り、「豊臣 秀吉」と改名します。
この頃、徳川 家康を家来にすることに成功します。
秀吉が、征夷大将軍になれなかったのは、既に室町幕府15代目将軍の足利 義明が就いていたので征夷大将軍になることができなかったのです。
朝鮮出兵と秀吉の死去
1590年に小田原の北条氏を破り、関東地方を平定します。同時に東北地方の大名も家来にすることに成功し、天下統一を実現するのです。
2年後の1592年、豊臣 秀吉は日本の隣国である朝鮮半島に兵を送り込みます。
それが文禄の役といい、第一次朝鮮侵略戦争が始まります。
実は秀吉、信長の家臣時代から大陸進出の構想があり、天下統一を果たす以前から、朝鮮出兵の計画があったと言われています。朝鮮侵略の後には明(中華人民共和国)への侵略も視野に入れていました。
その背景には、スペインやポルトガルなど西洋諸国のアジア進出への対抗意識や、明や朝鮮との外交関係の悪化も、原因の一つと言えるかもしれません。
まずは朝鮮に服従を求めますが、朝鮮側がこれを拒否した為、秀吉は朝鮮半島へ出兵することを決断します。
約16万人の軍を釜山に上陸させ、明の国境まで進出しますが、明の援軍や朝鮮水軍の攻撃を受けて劣勢に。
また朝鮮半島の過酷な天候で伝染病が流行り、また明軍に食料庫を焼かれたせいで、食料補充が滞ったりと、秀吉軍の疲労困憊もピークとなり、1593年に日本と明は講和条約を結び休戦します。
講和条約はウソにウソで塗り固めたようなもので、両国のトップはそれぞれ自国の勝利と認識し、和平交渉においては強気の条件を提示することになりました。
秀吉へ明の使節の口から伝えられた、明朝廷からのメッセージが秀吉の逆鱗に触れるのです。「秀吉に対して順化王(日本国王)の称号を与え、金印を授与する」
これは明を宗主国とした冊封体制に、日本も組み込まれるという意味合いでした。
秀吉は、直ちに西国(九州、四国、中国地方)の諸大名に対して動員令を発令し、1597年に朝鮮半島に向けて約14万人の兵を送り込みます。
これを慶長の役といい、第二次朝鮮侵略戦争が始まります。
2回目の侵略の目的は朝鮮南四道の実力奪取だったので、朝鮮民衆の虐殺行為や、捕虜の日本強制連行なども行われました。
しかし明や朝鮮の抵抗が強く、朝鮮南部に侵略した日本軍は海岸に釘付け状態になります。
その間日本では、歴史的な大事件が起きます。
1598年秀吉が病の悪化により、死去してしまうのです。
この出来事により、日本軍は朝鮮からの撤退を余儀なくされ、約7年間にわたる侵略戦争は終了します。
秀吉の死後
秀吉の死後は、歴史に残る大きな戦いが起こります。
秀吉は五大老(秀吉作のオリジナルの地位。徳川 家康や前田 利家など)宛に、遺言状を書きました。
内容は、「秀頼を守り豊臣家に尽くすように。また政略結婚はしないように」という内容でしたが、五大老である徳川 家康が、秀吉の死後、この遺言状に反する行動を取り始めるのです。
政略結婚が禁止にもかかわらず、諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給与を増やしたり、減らしたりなどと、秀吉の死後からやりたい放題になった徳川 家康に、物申したのが、五奉行のトップである石田 三成でした。
この歪みが後に大きな戦いに発展します。
1600年に三成軍vs家康軍で争った関ヶ原の戦いが起こり、結果三成軍が敗北。三成は処刑されてしまいます。
その後、やはり豊臣 秀頼の存在が気に食わなかった家康は、秀頼を服従させることを考えますが、豊臣家側で反徳川派の権力が高まってきたことで、徳川家との対立も深まるのでした。
また、豊臣家が再建した方広寺(秀吉を祭る寺)の鐘に刻まれた8文字がきっかけで、両家の対立が決定的となります。
「国家安康」「君臣豊楽」
「家康」の名前を、2つに分けた不吉な文字だと家康が激怒。この事態を執拗に追及し、ついに亀裂が表面化します。
その後、徳川家vs豊臣家の争いが大阪で起こります。
1614年に大阪冬の陣、1615年には大阪夏の陣で徳川軍が勝利し、秀頼は大阪城の落城と共に、母親の茶々と自害。ついに豊臣家は完全に滅亡します。
このあと約260年間続く、天下泰平の時代の幕開けとなるのです。
秀吉の裏話
秀吉と正妻ねねとの話
秀吉は女好きで有名ですが、正妻のねねには頭が上がらなかったそうです。
ねねは元々秀吉よりも身分が上で、信長にも気に入られたほどの素敵な女性でした。
しかし秀吉は、ねねがいながらたくさんの浮気をしたそうです。
ついに腹を立てたねねが、信長宛に秀吉の浮気について愚痴を書いた手紙を送っているのです。
その手紙対し「あのハゲネズミ(秀吉のこと)、お前のような美人な奥さんがいるのにけしからん」
なんと信長がねねの愚痴の手紙に対して、返事を書いているのです。
また、浮気をたくさんした秀吉ですが、あまり子宝には恵まれなかったそうです。
沢山の側室がいましたが、生まれた子供は4人。そのうち3人が死去。
最後の1人が豊臣 秀頼。秀吉と似つかずのイケメン男子だったそうです。
秀頼も秀吉の死後、江戸幕府vs豊臣家で戦った大阪の陣にて、大阪城が落城した時に母親の茶々と共に自害します。
秀吉の戦い方と人柄
秀吉は武将なので、時には敵の相手を刀で斬ったりすることもありました。
しかし秀吉は極力人を手に掛けなかったとも言われています。「秀吉自身も人を斬るのは嫌いだ」と語っていたことも有名な話です。
1578年の三木合戦では、三木城に兵糧(食料など)が搬入できないように、交通路を遮断(兵糧攻め作戦)したり、
1582年の備中高松城の戦いでは、高松城を堤防などで包囲し、川の流路を意図的に変えることで、城自体を水没させる作戦(水攻め作戦)などが有名です。
1590年には小田原北条氏征伐も、殺さず、家来になるよう指示するなど、秀吉は味方の犠牲を極力少なく済むように、また敵が早期降伏し最終的には味方(家来)になるよう指示してきたといいます。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
・百姓から関白へと、天下の大出世を遂げる。
・上司や部下から好かれる。
・お人好しだが、非常に頭が良く計算的高い人柄である。
秀吉の出世街道は、現在にも通ずるところがあると思います。
羽柴 秀吉と名乗る以前から、草鞋を温めていたりと、何かと人の喜ぶことができる秀吉のお人柄。
出世の為に必死だった行動なのかも知れませんが、魔王のような織田 信長でさえも、可愛がったという愛らしさが秀吉にはあります。
この記事を読んで豊臣 秀吉や戦国大名に少しでも興味を持って、深堀していただけたら嬉しいです。