伊達政宗を知っていますか?有名だから名前は知ってるけど、何をした人かはわからないかもしれません。 後に「独眼竜政宗」と呼ばれました。戦国武将の中でも、破天荒な大胆さと、繊細で計算高い二面性を持った魅力的で、人気のある人物です。そんな伊達政宗の年表や生涯をわかりやすく解説していきましょう。
Contents
伊達政宗はどんな人?
- 勉学に長けて、あたまの回転が速い。
- 野心家で、戦は非情なところがある。
- 度肝を抜くパフォーマンスで人々を驚かす。
- ピンチなときに、上手く切り抜けられる強運の持ち主。
- 自分の領地の発展に貢献。
- おもてなし好きで、料理も好き。
- 筆まめで字が綺麗。
- 酒癖が悪く失敗が多く、後で後悔する。
誕生~伊達家当主なるまで
安土桃山時代~江戸時代にかけて活躍しました。戦国時代の末期に出生しました。
天下人と呼ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がすでに活躍している時代に生まれた伊達政宗は、野心家で10~20年早く生まれていたなら、天下をとれたかもしれないと、生まれたのが遅かったことを嘆いたと言われています。
5歳で、片目を失明し、内気で引きこもりがちでしたが、教育係の虎哉宗乙に、「隻眼の英雄・李克用」を見習うようにと、教えられたことが、きっかけで、内向的な幼少期から豪快な政宗に成長したのです。若くして当主となったため、始めは周りの大名にに認められず、苦労しました。
1567年 | 0歳 | 出羽の国米沢城にて誕生。父は輝宗、母は義姫。政宗の幼名は梵天丸(ぼんてんまる) |
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1571年 | 5歳 | 天然痘を患い、右目を失明する。 |
1577年 | 11歳 | 元服し、伊達藤次郎政宗(だてとうじろうまさむね)と名を改める |
1579年 | 13歳 | 三春城主・田村清顕の娘愛姫(12歳)を正室に迎えた。この政略結婚で、近隣諸国との協調をとり奥州を安定させる。 |
1581年 | 15歳 | 初陣。隣接する相馬氏と戦う。 |
1582年 | 16歳 | 憧れの織田信長が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれる。 |
1584年 | 18歳 | 伊達家の家督を継ぎ17代伊達家当主となる |
独眼竜政宗と呼ばれたわけ
天然痘を患う
5歳で天然痘(疱瘡)を患い、右目を失明してしまいます。
梵天丸(政宗)は、白濁し飛び出した右目になってしまい、失明したことを引け目に思い、だんだんと性格的にもひねくれ、引きこもりになりました。
隻眼の英雄・李克用
中国の中国の歴史書の「十八史略」の中の英雄で、李克用は「独眼竜」と称され、指揮する黒づくめの軍団は「鴉軍」と呼ばれ恐れられていました。
李克用の生き方から、政宗も隻眼でも戦もできるし、カッコイイと憧れました。
(隻眼というのは、片目=独眼のこと)
政宗といえば、眼帯をつけている姿が有名ですが、実際はつけていたという記録はないのです。1942年の映画「濁眼龍政宗」で眼帯をつけた政宗が登場したことから、眼帯のイメージができたようです。戦国武将ゲームでイケメン武将とされたことも、人気があがった要因だと思われます。
伊達政宗を支えた2人紹介
片倉小十郎景綱
政宗を幼い頃から支え続けました。忠義心が強く、文武に優れた武将でした。後年まで、政宗の右目として一生を捧げました。知略家として政宗の軍師的な役割と精神的補佐を務めました。
虎哉宗乙
父「輝宗」は、政宗の武将としての才能を見抜き、教育熱心でしたので、臨済宗「虎哉宗乙」禅師を、梵天丸(政宗)の教育係としました。
肉親であっても容赦なく殺害する非情
1585年 | 19歳 | 小手森城の撫で斬り (政宗を離反した大内定綱の城)兵士だけだはなく、老若男女問わず場内の敵側の人間を一人残らず、なで斬りする。奥州に伊達政宗という武将の名を広めることとなる。 二本松城の戦い 父・伊達輝宗ごと畠山義嗣を射殺してしまう。 人取り橋の戦い 会津の蘆名名氏、常陸の佐竹氏を中心とした反伊達連合軍と戦う。連合軍3万VS伊達軍7500で圧倒的不利な状況だったけど耐えて窮地を脱する。これを機に政宗に味方する大名も増えていき、政宗は奥州で勢いを増していく。 |
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1588年 | 22歳 | 秀吉の惣無事令を無視して、大崎合戦を引き起こす。 |
1589年 | 23歳 | 摺上原(すりあげはら)の戦い 蘆名義広(あしなよしひろ)と戦い勝利する。これにより奥州でほぼ敵のいない状態となり、奥州に約110万石を保有する覇者となる。 |
1590年 | 24歳 | 北条氏と同盟を組んでいたが、秀吉に従い、北条氏と戦う。 政宗を暗殺未遂事件。弟の小次郎を殺害。 北条小田原攻めに遅れて参加する。奥州仕置きによって秀吉に会津を没収されてしまう。 大崎・葛西一揆が勃発。奥州仕置きに不満を持つもの達の一揆の黒幕は政宗だといわれている。 |
1592年 | 26歳 | 朝鮮文禄の役 日本を統一した秀吉による朝鮮出兵に参加する。 |
政宗は非情であり、ド派手なパフォーマーでもある
小手森城の撫で斬り
小浜城主・大内定綱(伊達家の傘下)&蘆名家(政宗の妻愛姫の父である田村清顕から脱却しようと、敵対している)⇒政宗に反旗を翻しました。
政宗は、大内定綱が裏切ったことに激昂し、菊池顕綱(大内定綱の親族である)の小手森城を総攻撃しました。
政宗は、鉄砲8000丁で激しい攻撃を行い、兵士500人全員と、城主の菊池顕綱だけではなく、老若男女問わず城内の、敵側の人間を残らず撫で斬りし、殺害した。
たった一日で、大内定綱は、小浜城を放棄して二本松城に逃亡しました。近隣諸国への見せしめとなり、奥州に伊達政宗という武将の名を広めることとなりました。
政宗の行動に慄いた畠山義継は、和睦を申し入れました。
二本松城の戦い (父輝宗も亡くなってしまう)
畠山義継(二本松義継)は、和睦交渉に参上するとの名目で、宮森城の伊達輝宗(正宗の父)を訪問すると突然伊達輝宗を拉致し、二本松城に連れ去りました。
そのころ、鷹狩りに出ていた伊達政宗は、この急報を受け、すぐに出陣し、途中の阿武隈川湖畔で追いつきました。
伊達政宗は、父・伊達輝宗ごと畠山義嗣を射殺してしまいます。政宗の異常で過激な戦さのしかたに、葦名・佐竹などの反政宗勢力を集めてしまいます。
人取り橋の戦い
伊達政宗の勢力を警戒した、二本松勢(亡き畠山義継の勢)は、黒川城主・亀王丸(蘆名勢)、常陸太田城主・佐竹義重を中心とした反伊達連合軍を集め前田沢城で布陣しました。
反伊達連合軍3万VS伊達軍7500の大ピンチでした。伊達軍側の鬼庭良直が人取り橋を越えて敵を攻撃し自分が犠牲になり、撤退時間を稼いでくれました。
大崎合戦
前の年に秀吉が惣無事令を発令しましたが、無視して大崎合戦を引き起こします。
主君の大崎義隆(伊達家から独立したい)VS家臣の氏家吉継(伊達家に従っていたい)
大崎家で内紛がありました。政宗が氏家吉継についたことで争いが起きました。
大崎方に最上義光が参戦したことによって、伊達政宗の敗北が決定的になりました。そのとき、政宗の母義姫(最上義光の妹)が間に入って説得したおかげで政宗は敗北しましたが、なんとか治まりました。
摺上原の戦い=宿敵・蘆名氏の滅亡
東北の覇権を争う蘆名義広は周辺大名と結託し、伊達氏包囲網を形成しますが、政宗の巧みな戦略で大敗し、とうとう滅亡してしまいます。
伊達政宗がかなりの力をつけてきたのを、反政宗派も認めるようになりました。政宗軍につくことに決めました。
- 大内定綱と弟の片平親綱(小手森城の撫で斬りで政宗を裏切ったことがある)
- 奥州の名家である大崎氏(政宗の母の兄最上氏の仲介によって)
東北の覇権を争う蘆名義広軍を打ち破り、この大勝利で一気に領地を広げ、わずか6年で南奥州の覇権を確立しました。天下統一の野心が膨らみました。
政宗暗殺未遂事件。弟小次郎を殺害
豊臣秀吉に要請され、小田原攻めに出陣する直前に、母義姫による政宗の毒殺未遂事件が勃発したとされています。しかし、未遂に終わり、政宗は弟小次郎をやむなく処罰し殺害することになりました。
小田原攻め出遅れる
豊臣秀吉が天下統一するのにあと一歩というところまできていて、臣下になっていない大名は、北条氏と伊達氏だけでした。北条氏と伊達氏は同盟を結んでおり、北条氏に秀吉と対抗し襲撃しようと誘われていたため、政宗は、小田原の北条氏を攻めるのを迷っていました。
豊臣秀吉が「小田原攻め」に日本各地の大名に応援を要請し、伊達政宗にも要請がきていました。しかし、母義姫による政宗毒殺未遂事件を収めるのに時間がかかり、小田原攻めに遅れて出陣してしまいます。
伊達政宗は、惣無事令を無視してただでさえ立場が弱いのに、小田原攻めに4か月も、遅参してしまいました。そこで伊達政宗は、死に装束である白装束を身に着けた姿で小田原に駆け付けました。豊臣秀吉は、その覚悟と心意気を目の当たりにし、政宗の無礼をなんとか許しました。しかし、領地を一部奪われ、家臣になるように強要されます。
派手好きの秀吉には、良い作戦でしたね。殺されてもおかしくない状況ですものね。
大崎・葛西一揆が勃発
小田原参陣命令に応じなかった東北勢力が、秀吉の「奥州仕置き」で領地を取り上げられたり冷遇されたことに反発が高まりました。
大崎・葛西一揆が勃発したとき、蒲生氏が秀吉に、「政宗が黒幕である」と報告したため、またまた大ピンチになりました。その疑念を弁明するのに、今度は、白装束に黄金の磔柱を背負った姿で秀吉の前に現われるというパフォーマンスをやってのけました
なぜか、政宗は今回も、一応無罪になりましたが、結果的に領土を減らされました。
朝鮮出兵
豊臣秀吉が明を手中にするため、朝鮮出兵を計画しました。遠征軍を日本各地の武将を京に呼びつけ、その中に伊達政宗もいました。朝鮮出兵の前戦基地の肥前の「名護屋城」を目指すことになりました。京を出る一番隊・前田利家、二番隊・徳川家康、三番隊・伊達政宗でした。
遠征軍を見送る京の人々の注目を集めたのが、三番隊・伊達政宗の一団でした。豪華な甲冑を身に着けた伊達政宗をはじめ、一団の乗る馬も、熊や虎の毛皮などで作られた派手な馬鎧でした。身分の低い足軽でさえ、立派な黒甲冑を着ていて、あまりにも華やかな軍勢に観衆は驚きました。それ以来、京では「粋な恰好をした男」のことを、伊達男と呼ぶようになりました。
政宗 159.4cm B型
甲冑:黒漆五枚胴具足
兜:金三日月前立
1595年 | 29歳 | 秀次事件に巻き込まれる |
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1598年 | 32歳 | 豊臣秀吉が、この世を去る。(享年62歳) |
1600年 | 34歳 |
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1601年 | 35歳 | 仙台藩誕生、初代藩主となる |
1613年 | 47歳 | イスパニア(スペイン)に家臣の支倉常長を派遣。(国交結べず失敗に終わる) |
1614年 | 48歳 | 大坂冬の陣に参戦 |
1616年 | 50歳 | 駿府城にて徳川家康亡くなる。(享年75歳) |
1636年 | 70歳 | 伊達政宗亡くなる |
天下統一の夢には破れましたが、江戸末期まで存続する仙台藩の基盤を築くという偉業をやり遂げました。
没後は法名から貞山公と尊称されました。
軍師・片倉小十郎景綱/
伊達三傑(片倉小十郎景綱・伊達成実・茂庭綱元)
片倉小十郎重長(鬼小十郎)景綱の息子
支倉常長(洗礼名ドン・フィリッポ・フランシスコ)慶長遣欧使節団
真田大八(片倉守信)真田幸村の息子 他
政宗は文化人でもある
徳川家康が天下統一し、伊達政宗の天下を取るという夢は破れてしまいました。
徳川家康が江戸幕府を開くと、伊達政宗は初代仙台藩の藩主になりました。仙台城に住み、その後は、「自分の治める仙台藩の平和を守ること」を新たな夢としていくのでした。
世が落ち着いてからは、仙台藩内の開発に力を入れ、のちに貞山堀と呼ばれるりっぱな運河を整備しました。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯の開発をしました。
さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けました。これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整いました。寛永9年(1632年)以降に仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されるほどになりました。
- 塩産業に力を入れ、様々な場所に塩焼き場を設置し、塩を製造していました。
- 「御塩噌蔵」という味噌蔵を建てて、大量生産をして、江戸の味噌問屋に卸していました。
晩年の伊達政宗は、徳川家康の遺言の「これからの徳川家を頼む」という言葉を胸に徳川家に尽くしました。特に、三代目将軍・徳川家光の重臣として忠義を尽くしました。家光も「伊達の親父殿」と慕って、伊達政宗が亡くなる直前に会いに行ったということです。
名言
政宗の名言かどうかは、はっきりしないとの諸説ありますが、
「仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。」
訳(人のためを思う気持ちが強ければ自分自身が弱くなる。正しくあろうとする気持ちが強くなりすぎるならば考えが固くなる。人を敬う気持ちが強ければ媚になる。利口なだけでは噓吐きになる。人を信じるばかりでは騙されて損をする。穏やかな気持ちで倹約し、金銀を蓄えをすることだ。倹約の仕方は、自分が不自由であることを我慢することである。自分は、この世に来た客と考えれば何も辛いこともない。食べ物がまずくても褒めて食べるように。客なんだから好き嫌いをいうな。過行く一日を大切にし、身内の者たちに感謝の挨拶をして、この世に別れを告げるのが良い。)
曇りなき心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く
面白いエピソード
正宗は料理好き
人をもてなすことが好きで、自ら料理をして振る舞っていました。
仙台みそ
米麹を使い辛口の赤みそで、朝鮮出兵のときも政宗の持参した味噌だけが腐らなかったと言われています。
凍り豆腐
豆腐を凍らせて乾燥させた豆腐。保存食としてよく使っていました。
伊達巻
ヒラメのすり身に玉子を混ぜて焼いた平玉子焼きが、伊達巻と呼ばれるようになった説があります。
ずんだ餅
枝豆をすりつぶして砂糖を加え、餅に絡めて食べます。政宗が出陣するときに、陣太刀という儀式用の太刀で枝豆をきざんで、「じんたち」が訛って「ずんだ」になったと言われています。政宗考案の料理です。
正月にはおせち料理
普段は質素を心がけていたようですが、おせち料理は、60種類以上の食材を使い、彩りや見栄え良く豪華に作りました。
正宗は筆まめ
政宗は、筆まめで、達筆で「政宗文書」として様々な手紙が残されています。
実はお酒に弱いのに毎回飲み過ぎて、とても酒癖が悪かったようです。
後日に酒に酔った勢いで、家臣の頭を脇差で殴打したことを詫びる手紙や、二日酔いで「頭が上がらない」など、お酒の失敗の謝罪文が多数あったようです。
伊達政宗のこぼれ話
- 伊達政宗の黒甲冑・兜をモチーフにして作られた映画のキャラクターは、なんと、ダースベイダーです。
- 伊達政宗の子孫であるお笑い芸人は、サンドウィッチマンの伊達みきおさんです。
伊達政宗ゆかりのお城
- 生誕の地 米沢城(山形県米沢市)
- 黒川城(福島県会津若松市)
- 仙台城主時代の仙台城(青葉城)(宮城県仙台市)
- 晩年の若林城(宮城県仙台市)
60歳を過ぎてから、仙台城付近に若林城を築きました。城を複数持つことが禁じられていたため、隠居した伊達政宗の屋敷として建てられました。
まとめ
伊達政宗は人気があるがゆえに、本当に実力はあったのか?過大評価されているのでは?とも言われています。
伊達政宗の代表的な戦いを、まとめてみました。
- 小手森城の撫で斬り
- 二本松城の戦い
- 人取り橋の戦い
- 摺上原(すりあげはら)の戦い
天下は取れなかった伊達政宗ですが、豊臣秀吉や徳川家康に数ある大名の中でも、興味を持たれていたのは魅力的な人格を見抜かれていたからではないでしょうか?なんか憎めないと思われていたのではないかと思います。
特に、初代仙台藩主になってから、運河を作ったり、石巻港を作ったり、後世に残る開拓をしたので、今でも、仙台の人々に慕われています。文化人としても、お茶をたしなんだり、お料理に凝ったり、達筆な手紙をマメに書いたり、多彩な人であったと思います。皆さんが、この記事を読んで、伊達政宗に興味を持っていただけたら嬉しいです。