歴史

織田信長とはどんな人?性格から見た戦いの戦術を徹底解説!「面白エピソードも公開」

あなたは戦国武将と聞くと誰を思い浮かべますか?

豊臣秀吉、徳川家康など戦国武将はたくさんいますよね。

その中でも1番有名なのはやはり織田信長では無いでしょうか?

織田信長は第六天魔王と恐れられ、呼ばれているのはご存知ですか?

果たして織田信長とは、本当に第六天魔王と言われるような人だったのでしょうか?どのような人物像なのか、どんなことをしていたのか。

一つずつ徹底解説していきます!

それでは早速見ていきましょう。

Contents

織田信長の人物年表

 

西暦 概要
1534年 0歳 尾張国は(愛知県西部)で織田信秀の子として誕生。
1551年 18歳 父(織田信秀)が病死する。信長が織田家の跡を継ぐ。
1559年 26歳 尾張国を統一する。
1560年 27歳 桶狭間の戦いが始まる。
今川義元を倒したことで、桶狭間の戦いが終わる。
1562年 29歳 徳川家康と同盟を結ぶ。
1567年 34歳 稲葉山城(岐阜城)を攻める。ここを本拠地とした。
1568年 35歳 室町幕府第15将軍に足利義昭を支持し、手助けをする。
1570年 37歳 姉川の戦いで家康との連合軍が、浅井長政・朝倉義景の連合軍を倒す。

石山戦争が始まる。

1571年 38歳 比叡山延暦寺を焼討にする。

長島一向一揆へ攻撃する。(1回目)

1572年 39歳 三方ヶ原の戦いで家康との連合軍は武田信玄に敗れる。
1573年 40歳 足利義昭を追放する。よって、室町幕府のを滅ぼした。

長島一向一揆へ攻撃する。(2回目)

1574年 41歳 長島一向一揆へ攻撃する。(3回目)その後、鎮圧した。
1575年 42歳 長篠の戦いで家康との連合軍が武田勝頼を倒す。

越前一向一揆の鎮圧。

1576年 43歳 安土城を築く。
1580年 47歳 石山戦争が終わる。
1582年 49歳 天目残の戦いで、武田勝頼が敗死し武田家滅亡。

本能寺の変で自害する。

 

織田信長とはどんな人?

織田信長 性格

織田信長の人物像を想像できますか?

天下統一の一歩手前まで行ったのだから優秀な武将というイメージが強いと思います。しかし、実はとても変わり者だったみたいです。

織田信長の性格をざっくりまとめるとこのようになります。

  • 何事にも動じない
  • 判断力・洞察力が優れている
  • 新しい物好き
  • アイディアマン
  • 頭が良い
  • 漢字で表すと「烈」
  • 身内を大切にするが、歯向かうものには容赦ない
    このような性格と言われるようになったエピソードを時代の流れとともに見ていきましょう。

「性格」大うつけ者

若い頃の信長は「大うつけ」=大バカ者と言われるほどめちゃくちゃな性格をしていたみたいなんです。もう少しで天下を取っていた男のことを言っているとは思いませんよね。

そもそもなんで「大うつけ者」と呼ばれるようになったんでしょう。

理由の1つに信長の派手なファッションにあったようです。

まげは頭の上で束ねただけ。

浴衣の袖を外し動きやすい格好。

腰のひょうたんをぶらさげていた。

袴は膝ほどの長さのもの。柄は、虎柄や豹柄と派手なものが多い。

想像すると浮いてしまいそうな格好ですよね。

またこんなエピソードを発見しました。

なんと!女装して男を引っ掛けて、からかっていたそうです!!

こんな信長に、両親だけでなく教育係のじいやも頭を悩ませていました。

そんなある日、信長の父(織田信秀)が死んでしまいました。

父の葬式で信長は、焼香の灰を父の位牌へ投げつけたというエピソードも発見しました!

「性格」判断力・洞察力・何事にも動じない

父の死後、信長は織田家の跡を継ぐという大きな問題に直面していました。

さらには教育係のじいやは信長の性根を叩き直そうと命懸けの説教と称して自害しました。

母は、信長を嫌い弟に織田家を継いでほしいと思もっていました。しかし、母と弟の悪巧みをいち早く察した信長は弟を殺害します。

父やじいやの死、弟殺害を経て今までの行いを改めたのか、元々の才能なのかその後の信長は、メキメキと頭角を現していきます。

そして、桶狭間の戦いが始まります。

相手は、信長よりも格上の今川義元です。

今川義元の軍が25千〜45千に対し、信長の軍は5千程度でした。

この差を信長はどう埋めたのでしょう。

それは、大粒の雨で視界の悪い中、今川軍の本陣へ奇襲するという戦略でした。

この戦略で信長は勝利しました。

信長の、冷静に戦況を見極める判断力・敵の位置を正確に探る洞察力・そして格上の相手でも臆さなずに挑めるほどの肝の座りっぷりが勝利へ導いたのかもしれませんね。

「性格」新しい物好き・アイディアマン

当時の日本は海外との貿易が盛んでした。そして、信長は新しい物が大好き!!

だから信長はどんどん海外の文化を取り入れていきました。

普段の服装から戦う時の服まで、外国産のものを愛用していたみたいです。また、家具や食器類なんかも外国のものを取り入れていました。

こうした新しい物好きの性格が特に生かされたのが、長篠の戦いです!

相手は、武田勝頼が率いる武田軍です!この戦いの前に、信長と家康は同盟を組んでいてので家康と合同での戦いになりました。(織田・徳川連合軍)

武田勝頼とは、武田信玄の息子。

武田軍は騎馬隊が有名でした。

騎馬隊相手に信長はどう戦ったかというと、1000丁もの鉄砲でした!

この時代の鉄砲は連続で打つことができ無いので戦いには不向きとされていました。

しかし、この問題を信長の一つのアイディアで解決してしまいます!

どんなアイディアだったのでしょうか。

それは、連続で打てない穴を埋めるために「3段撃ち」という方法を思いつきました。

3段撃ちとは

1列目が打つとすぐに交代し2列目が前に出てきます。2列目3列目が打つ間に1列目の人がもう一度打つ準備をしておきます。

2列目が打ち終わると3列目が前に出ます。3列目1列目が打つ間に2列目の人がもう一度打つ準備をしておきます。これを繰り返し攻撃を止めないようにします。

その結果、武田軍の騎馬隊はあっという間に壊滅状態になり、たった8時間で織田・家康連合軍の勝利が決まりました。

「性格」経済も強い

今までの戦いで素晴らしい結果を残してきましたね!

今後、戦いに勝ち続けると膨大な量の領土を持つことになります。

信長が領土を収める為に注目したのが「楽市楽座」でした。

「楽市楽座」とは

簡単にいうと、誰でも簡単に商売ができたり関所(国の国境)をこえる時にかかる税を廃止したりすること。また「座」と呼ばれる商業の同業者組合を禁止すること。

「楽市楽座」をすることで商業が活発化し国が豊かになりました。

「性格」漢字で表すと「烈」、身内を大切にするが、刃向かうものには容赦はない

信長を漢字1字で表すなら「烈」と言われています。

「烈」の意味

ひどい・厳しいという意味があります。

ではなぜ、「烈」と言われるようになったのでしょうか。

理由の1つに信長は身内を大切にするが、刃向かうものには容赦はなかったようです。

比叡山延暦寺の焼討では、女・子供関係なく皆焼き殺しています。このようなことを比喩した言葉「第6天魔王」と呼ばれるようになりました。

このようなことをしていた信長の性格とは真反対の人物明智光秀によってここから信長の人生は変わっていきました。

それは、皆さんもよく知っている本能寺の変です。

元々、信長の家臣をしていた光秀に裏切られ信長は、自害して生涯を終えました。

代表的な戦い3つ

ここまで信長の「性格」について迫ってきましたがここからは上記で少し触れた3つの戦いについてより詳しく見ていきましょう。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

戦国時代中期1560年(永禄3年)5月尾張国と三河国の境(愛知県名古屋市と豊明市をまたがる桶狭間山)で起こった戦いです。

相手は今川義元率いる今川軍。今川軍の数は2万5千〜4万5千に対して織田軍の数は5千程

では、なぜこの戦いが起こったのでしょう。

義元はこの時、駿河・遠江とおとうみ三河みかわを支配していました。北の武田家、東の北条家と三国同盟を結び西の尾張を一気に制圧し、領土をさらに広げようとしていました。

この時の織田家は尾張を制圧したばかりで左右のつながりが薄く、多くの戦力を集めることが困難でした。

このことを知っていた義元の考えは、早いうちに制圧しようというものでした。

今川軍の戦略

織田軍の砦を一つ一つ崩し尾張国まで進み、信長の首をとるという戦力を立てていました。

軍の数が大きく上回っていたので義元はこの戦いは負けることはないとたかをくくっていました。

織田軍の戦略

今田軍は、戦力が多いので砦を一つ一つ奪いにくると踏んでいました。

ですので、今川本体が大高城に入る前に決着をつけるということを目的としていました。

つまり、今川軍が砦に気を取られている時に今川軍の本陣が手薄になると考え、そこを狙うという戦力でした。

戦いの開幕

5月19日午前3時松平元康隊の奇襲により戦いが始まりました。

松平元康は2万5千の兵で佐久間盛重(400)が守る丸根まるね砦を攻撃しました。

1時間後には朝比奈泰朝あさひなやすもと隊が鷲津わしづ砦に向けって出発しました。

この一報を聞いた信長はいよいよ動き出しました。

午前6時、信長は今川本体へ向かいます。この時、本当の信長の作戦は今川軍に情報が漏れないように家臣にも伝えていなかったのです。

全ては、義元を油断させ沓掛くつかけ城から出さすためでした。

信長は、「これから今川の首を取りに行く。」と言うと数名の家臣を連れ城を出ていきました。信長に置いておいかれた家臣らはその後を急いで追っていました。

信長は熱田神宮で勝利祈願をしたそうです。本当にしたかは定かではありませんが、織田軍の集合場所だったことは間違いありません。

午前9時、総勢2千が熱田あつた神宮に集結しました。

この時、丸根砦の佐久間盛重が松平隊に打ち取られていました。また、同時刻に鷲津砦も討ち取られていました。

よって、尾張攻め5千の部隊が進軍し始めました。この報告を受けた義元は沓掛城を出発し大高城へ向かいました。

一方、信長も義元が動きだした報告を受け中嶋砦の救援に向かいました。

午後1時、信長が中嶋砦へ到着したことで間一髪のとこで中嶋砦を守ることができました。

また、信長が到着したことで松平隊、朝比奈隊は一旦その場から引きました。

今川本体は大高城まであと3キロのところまで迫っていました。(桶狭間山付近)ここで少し休憩を取った義元は山の中で周りが見えないくらいの豪雨の遭います。

義元が休憩を取っている情報を聞いた信長はこの雨を味方に進軍しました。桶狭間山にたどり着いた信長は間髪いれずに、今川軍に突撃しました。

いきなりの奇襲に今川軍は大混乱になり、多くの兵士は逃げ去ってしまいました。

今川は状況がわからぬまま大高城方面へ逃げましたが織田軍に追いつかれ、信長の家臣毛利良勝がトドメを刺しました。

奇襲開始からわずか1時間という短期決戦で幕を閉じたのでした。

戦いのその後

今川軍に今川義元の死の一報が伝わると前線で戦っていた今川軍は逃げるように撤退していきました。また、今川軍の沓掛城・大高城は織田の城となりました。最後まで抵抗していた鳴海城の岡部元信も義元の首と交換で城を織田へ渡しました。

なお、今川軍で活躍していた松平元康はこれを境に今川家から手を引き故郷の三河国の岡崎城へ行きました。のちに、徳川家康として頭角を表すことになります。そして、信長と家康は同盟を組み、西へ攻めるための糸口を掴んでいきます。

長篠の戦い

長篠の戦い

1575年5月、信長と家康率いる織田・徳川連合軍3万8千と武田勝頼率いる武田軍1万5千が三河国長篠城(愛知県新城市長篠)で繰り広げられた戦いです。

では、なぜこの戦いは起こってのでしょうか。経緯から戦いの最後まで徹底解説していきます!

勝頼は、父(信玄)の遺志を継ぎ、三河へ侵攻していきました。瞬く間に「明知城」「高天神城」などを攻め、信長・家康の領地を奪っていきました。

そして、次に狙ったのが家康の領地である「長篠城」でした。

元々長篠の戦いは家康対勝頼の戦いでした。

しかし信長と家康は同盟を結んでいた為、信長は救援をしに行くことになりました。

当時、長篠城を守っていたのは500人ほどでした。そこへ、1万5千の兵が攻め込みましたが、多くの備蓄と武器なども十分に揃ってたのでなんとか持ち堪えていました。しかし、援軍がなければ時間の問題で負けてしまいます。そんな中、鳥居強右衛門が岡崎城へ援軍を頼みに向かいました。

一方の岡崎城でも、援軍を送ろうと準備をしていました。しかし、家康の軍だけでは負けると判断した為、信長に援軍の要請をしました。

鳥居強右衛門が岡崎城へ着いた時には援軍の準備は整っていました。喜んだ鳥居強右衛門は、長篠城へ戻る途中に援軍がくることを伝えるため狼煙をあげました。

しかし、武田軍見つかり捕まってしまいます。武田軍は「援軍は来ないから城を開け渡せ!」と嘘を皆に伝えるように命じましたが、鳥居強右衛門は、「あと2、3日で援軍がくるから持ちこたえろ。」と命がけで伝えました。

これを聞いた兵士たちの士気が高まりなんとか援軍の到着まで持ち堪えました。

織田・徳川連合軍が到着後、設楽原(愛知県新城市)に馬防柵を設置しました。

〜信長の戦略〜

①相手からの攻撃してきた所を狙う作戦。つまり、武田軍の騎馬隊を柵でしのぎ、鉄砲で攻撃をするということ。

②地形を利用する。設楽原は見通しの悪い場所だが、自軍を分散して置く事で敵から見えにくくした。

信長の予想通り武田軍は騎馬隊で攻め込んできました。見通しの悪い場所(狭い空間)では、機動力が武器の騎馬隊の動きを止めることができました。ここぞとばかりに鉄砲隊は一斉射撃しました。

これには、騎馬隊も成す術がありませんでした。

この時代の鉄砲の性能は?

①命中率が低い

②連射はできない

③雨に濡れると使えない

→防御に適していた。

敵を十分引き付けて一斉射撃が効果的!!

織田・徳川軍の奇襲により、武田軍の拠点が陥落した報告が勝頼の耳の届く時には、多くの家臣たちも命を落としていました。

何人もの人は逃げ出してしまい武田軍の敗北に終わりました。

信長が勝てた理由1〈兵力の回復力〉

長篠の戦いの前、三方ヶ原の戦いがありました。この時の相手は武田信玄です。

織田・徳川連合軍は相当な戦力を失っていました。しかし、信玄の死により戦局は大きく変わることになります。

信玄が死んだことで武田軍は一度本国へ撤退しました。

この間に信長は将軍〈足利義昭〉を追放し、室町幕府を滅亡させました。また、朝倉・浅井・三好などの反信長勢力を一気に滅ぼしてしまいました。

こうして、勝頼が長篠城に攻め込む頃には、信長は3万もの勢力集めることができたのです。

信長が勝てた理由2〈武田家の家臣と勝頼の対立〉

武田信玄はカリスマ性とリーダーシップを兼ねそろえた武将でした。しかし、信玄の死により勝頼は信玄の4男でありながら、本来武田家を継ぐこととなったのです。

勝頼が後を継ぐことになった理由は、兄の失踪や死が原因でした。

そんな形で後を継ぐ勝頼を、古い家臣らはなかなか認めることができませんでした。その為、長篠の戦いで足並みを揃えることができなっかたのです。

信長が勝てた理由3〈最新兵器の導入〉

織田・徳川連合軍の方が数の上では、武田軍に勝っていました。しかし、決して油断することなく戦略を練りに練っていました。

当時の主な兵器といえば、弓矢や長槍、日本刀でしたが、信長は1000丁の鉄砲を用意しました。また、当時の日本では異例の戦法を考えていました。それが3段撃ちです。(諸説あり)

本能寺の変

本能寺の変

1582年6月21日、本能寺(京都)で家臣の明智光秀の裏切りによって起こった戦いです。また、本能寺は信長の死んだ場所となります。

明智軍13千に対し、織田軍は30ほどでした。

では、どのようにして襲撃したのでしょうか。

光秀は自分の軍に対し、

明智光秀
明智光秀
信長様が大軍を見てみたいとおっしゃっているので援軍へ向かう前に本能寺へ行くぞ。

と嘘をつきました。

また、本能寺へ着く前、

明智光秀
明智光秀
敵は本能寺にあり!信長様を助けに急ぐぞ!

と言い、軍を戦闘体制にしました。

このようにして、本能寺を攻めたとされています。

このことの気づいた信長は光秀の裏切りに気づけなかったこと、安心しきって少ない軍で本能寺にいたこと、少しの油断がこの事態を引き起こしてしまったのだと後悔していました。

織田信長
織田信長
是非もなし。

信長は自害し本能寺の変は幕を閉じました。

明智光秀の人物像と裏切った理由

明智光秀
  • 信長の家臣
  • 戦国武将
  • 本能寺の変の実行者

信長も光秀のことを認めておりとても大切にしていました。

ではなぜ光秀は信長を裏切ったのでしょうか。

理由は諸説ありますがいくつかご紹介します。

諸説1〈信長パワハラ説〉

信長は、光秀に対し髪を引っ張ったり殴ったりと暴力を振るっていたという話が残っています。その暴力にキレた光秀は復讐したのではないかと言われています。

諸説2〈光秀野望説〉

光秀は実は切れ者だったと言われています。なぜなら、比叡山延暦寺の焼討の実質的な実行犯は光秀だったからです。また、織田家の家臣の中で城を1番に持ったのは光秀でした。このように実は切れ者の光秀は、天下を取ろうと目論んでいたのかもしれません。

諸説3〈敵討ち説〉

人質になっていた光秀の母が信長のせいで殺されてしまったことへの敵討ちをしたのではないかと言われています。

その他の戦い

これまで、有名な3つの戦いをご紹介してきましたが、まだまだ信長の戦いはあります!

一つ一つ解説していきます!

姉川の戦い

姉川の戦い

1570年(元亀元年)7月30日 戦国中期、織田・徳川連合軍2万5千に対し浅井・朝倉連合軍1万8千の戦いです。場所は、(滋賀県長浜市姉川河原)です。

合戦までの経緯

これまで、各国の大名や豪族を従わせてきました。海の重要性を知っていた信長は、一刻も早く若狭わかさ周辺の海を手に入れようとしていました。

越前えちぜん・若狭・丹後たんごの3国の国を治める朝倉家の朝倉義景あさくらよしかげの元へ信長の下へ使えるように何度も要請したが、それに応えてはくれませんでした。

ついに、耐えられなくなった信長は越前へ攻撃を開始し、順調にいっていました。

しかし、お市から連絡があり浅井長政あさいながまさの裏切りが判明しました。信長は一度岐阜城へ戻りました。

浅井長政の妻お市は、信長の妹であり、お市は同盟を結ぶために長政と結婚した。

また浅井長政が裏切った理由は、元々朝倉義景との繋がりがあり同盟関係であった為。

明智光秀も浅井軍の攻撃を必死でしのぎ岐阜城へ戻りました。

浅井らは朝倉へ援軍を呼ぶ手配を始めていました。

その頃、信長は京を立ち刈安尾城かりやすおじょうへ1万5千の軍勢で向かってました。また、佐和山城さわやまじょうへは5千の軍を向かわせています。

2箇所から攻めることで朝倉の出方を伺いつつ、進行していくことができました。

この時の朝倉への援軍要請は、まだ届いていません。

刈安尾城かりやすおじょうでは、木下秀吉が戦わずして奪い取ることに成功していました。一方佐和山城では、六角残党軍を倒しながら佐和山城を包囲し終わっていました。

浅井は、2つの城が包囲されていることを知りましたが、信長の罠かもしれないと朝倉からの援軍を待つことのしました。

浅井がなかなか出てこないや、朝倉の援軍が来ることから信長は浅井のいる小谷城へ向かいました。

小谷城の周辺へ着いた信長は、浅井を引きずり出すために周辺の城下町に火を放ち、小谷城へ発砲しました。しかし、浅井は全く動こうとしませんでした。

ここで、朝倉の援軍が到着するといいう連絡が入ります。

信長は、ここで朝倉と浅井の軍に挟み撃ちになるのは危険と思い横山城のそばにある小高い丘へ移動しました。ここに徳川軍と合流しました。

開戦

両軍は姉川を挟む形で軍を配置しました。戦いは、浅井軍の遠藤直経えんどうなおつぐの鉄砲射撃で幕を切りました。

直経隊が姉川を渡り、柴田勝家隊に突撃しどんどん押して行きます。
その勢いに圧倒された織田軍の他の隊まで押され、織田軍の隊列は徐々に崩れていきました。

一方の徳川軍と朝倉軍も鉄砲射撃を合図に姉川を挟んで一進一体の攻防となりました。数で劣っていて徳川軍は徐々に押されていきます。

昔、今川の人質時代に学んだ、劣勢側の闘い方を思い出し、全軍を少し後退させ朝倉軍に姉川を渡れせました。

渡ってきた朝倉軍の左右から攻撃するように指示しました。この作戦が成功し朝倉軍が徐々に劣勢となっていきました。

引こうとした朝倉軍でしたが、姉川が邪魔となり引くに引けない状態になりました。

一方の信長はどんどん押され、信長本陣まであと少しのとこまで迫っていました。

これを知った横山城を包囲していた隊が助けに入りました。すると、織田軍の士気を回復させることに成功しました。

徳川軍の攻撃で劣勢となっていた朝倉軍はついに総崩れしてしまいました。朝倉軍は合戦が始まって数時間経たないうちに撤退してしまいました。

朝倉軍の撤退が予定外だった浅井軍は次の秘策を実行しました。

浅井軍の秘策

佐和山城と横山城にいた隊を出撃させ、織田・徳川連合軍を攻める作戦。

佐和山城は2千の兵を集め姉川へ向かいました。

信長の後方から攻めてきた2千に対抗するため信長は新たに指示を送ります。

信長の指示

全方で戦っていた部隊に、引き返すよう要請した。

家康には、全軍で浅井軍の側面から攻撃するように伝えた。

数で劣っていた信長本陣ですが、要請した隊がすぐに駆けつけたことのよりあっという間に浅井の追撃隊を跳ね返しました。

ここまで強い織田軍に、負けを悟った遠藤直経は落ちていた浅井軍の首をもち織田軍になりすましました。

もう少しで信長本陣まで迫った時正体がバレてしまいます。そんまま、直経は討ち取られてしまいました。

直経が討ち取られたことを知った浅井長政は、小谷城まで全軍を撤退させました。

小谷城に着いた浅井は籠城戦の備え城を固めました。

しかし、信長はこれ以上の被害を抑えるため深追いはしませんでした。

こうして、織田・徳川連合軍の勝利で姉川の戦いは幕を閉じたのでした。

戦いの影響

影響1

浅井・朝倉軍はまだ余力が残っており比叡山の僧侶などと手を組み戦いを繰り返していました。この戦いで、信長の戦力を殺されました。

よって、比叡山延暦寺の焼討が起こったのです。

影響2

この戦いがきっかけで本願寺、武田、畠山らが織田に対抗する兵をあげた「信長包囲網」が作られ、浅井家もその仲間になりました。

この、「信長包囲網」がこれから信長を苦しめていくこととなります。

比叡山延暦寺の焼討

比叡山延暦寺 焼き討ち

1571年9月30日 織田軍3万に対し延暦寺山門衆4千 延暦寺(滋賀県大津市にある)で行われた戦いです。

女、子供関係なく多くの人が殺されたと言われています。

信長が怒った理由

姉川の戦いからの影響

浅井・朝倉軍はまだ余力が残っており比叡山の僧侶などと手を組み戦いを繰り返していました。この戦いで、信長の戦力を殺されました。

僧侶たちの堕落

多聞院日記たもんいんにっき』には、このようなことが書かれていました。

僧侶は、修行中であるのにもかかわらず動物を殺し食べていました。

また、女性と性行為を行なっていました。

このように、僧侶としてあるまじき行為を繰り返してことに信長はこれはダメだとずっと思っていました。

延暦寺の僧侶へ出した条件

①信長側に来るのなら領地を返す

②仏教的に片方の味方をするのがダメなら中立な立場でいてほいい

③浅井・朝倉の味方をするのなら焼討にする

これに対し、僧侶たちが出した答えは③だったのです。

戦い

早々に信長は、3万もの兵を延暦寺へ送り込みました。

そして、比叡山のふもとにある民家などに火を放ちました。このことで、数千人もの命がなくなります。

その後、比叡山延暦寺は復活することは、ありませんでした。

石山戦争いしやまかっせん

石山合戦

1570年〜1580年の長い間繰り広げられた織田軍対石山本願寺の壮絶な戦いです。

石山本願寺

親鸞しんらんが「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土とといた浄土真宗は、庶民から圧倒的に支持されていました。その中で、「こう」と呼ばれる集会で信者の団結を呼ぶかけました。結果、勢力をどんどん拡大させていきました。

「講」で団結した信者たちは、上層の支配者たちに不満を爆発させ、「一向一揆」を各地で起こしていました。

これを仕切っていたのが、石山本願寺でした。

戦争のきっかけ

本願寺はただのお寺ではなく大きな勢力を持っていました。

一方信長は、日本統一を目指し侵略していました。そこで、必要となる資金を色々な所へ要求していました。

本願寺に対しても5千貫(現在の約5億円)を要求しました。

金・物・人の集まる場所は押さえておきたい信長は本願寺に対し、

「金を用意しろ。さもなくば、力づくで町を我が物にするぞ」と言います。

信長の勢力に危機感を感じた本願寺でしたが、仕方なく金を支払うことにしました。

しかし、だんだん信長と足利義昭の関係が悪化しました。

本願寺の立地に目をつけていた信長は「その土地くれない?他の土地と金はあげるから!」と提案しました。しかし、本願寺もこれには応えられませんでした。

義昭に追放され本願寺に身を寄せていた近衛前久このえさきひさの進言により、本願寺は信長と対立することを決めます。そして、摂津で織田軍と交戦中の三好三人衆に加勢することにしました。

ここまでを図にするとこうなります↓

信長+義昭vs三好(with 近衛)

信長が本能寺をカツアゲする

信長vs義昭

信長vs三好(with 本願寺)

長島と越前の一向一揆の開戦

この後、すぐに石山合戦は幕を開けました。しかし、初めはすぐに停戦を迎えます。

信長と本願寺は直接対決はしていませんが、信長の本拠・尾張のすぐ目の前にある、海上交易の要所でもある伊勢長島で一揆勢をやらせ、信長を苦しめました。

そうかと思えば、信長に茶碗や掛け軸を送ってみたり、表向きの和解をしたり。。。

1573年信長は朝倉義景を滅ぼし、越前を手に入れます。しかし、守護代に対する不満が大きくなり領民は決起します。

越後には、本願寺派の人が多かった為、この翌年には一向一揆化します。そして、織田方・旧朝倉方の人間を追い出しました。

これを知った本願寺は、越前を奪うため下間頼照しもつまらいしょうを派遣し、越前の守護として支配させました。

一揆殲滅いっきせんめつ

長島では、大きな損害を被り、せっかく手に入れた越前も一向一揆に奪われてしまい、ついに信長がキレてしまいます。

1574年に長島一向一揆の殲滅せんめつにかかりました。

信長は、全国から8万の大勢力を、陸と海から城を包囲し兵糧攻めにしました。たまらず降伏しに出てきた一揆勢を皆殺しにしていきます。

兵糧攻めとは、食料や物資を調達する道を断たせ、敵の攻撃力を弱体化させる攻め方のこと。

それに怒った一揆勢は捨て身の攻撃を仕掛けました。これにより、織田軍は多くの戦死者を出してしまいました。

しかし信長は、城内の者を1人も逃すことなく、柵で押し込んで火を放ち、2万の一揆勢を焼き殺しました。

一方の越前では、本願寺から派遣された下間頼照しもつまらいしょうの悪政に不満が募り、内部分裂が始まっていました。

信長はこの隙を逃さず長島と同様のやり方で越前を制圧します。

本願寺は身の危険を感じたのか、ひとまず信長に詫びを入れ和議を結んだのでした。

天王寺砦の戦い

ところが1576年の春、足利義昭の呼びかけで、本願寺はまたも兵をあげたのでした。

信長は、6つの砦を築いて本願寺を3方向から包囲します。しかし、南の木津砦きづとりで・北からはろうの岸砦を拠点とし海上輸送によって本願寺への補給は続いていました。

そこで、信長は中間地点の天王寺砦に明智光秀・佐久間信栄さくまのぶひでを入れ、木津砦を落しにかかります。

織田軍が攻撃を開始すると、楼の岸砦から1万の兵が織田軍の横腹に襲いかかりました。

1万の兵に、腕の立つスナイパーも加勢して、強烈な銃撃を与えてきます。

この隊に織田軍の隊が敗れました。光秀はなんとか天王寺砦に逃げ込みましたが、このままでは完全に負けてしまうと考え、信長に援軍要請をします。

これを聞いた信長は急いで兵を集めますが、突然の召集でなかなか集めることができませんでした。そこで、信長自ら3千の兵をかき集め出陣します。

足に被弾しながらもなんとか包囲を突破し砦に入ることができました。

信長自ら救援しにきたことの喜んでいた光秀隊と共に、休む間もなく外へ討って出ると敵兵は動揺し本願寺へ逃げていきました。

第一次木津川口合戦きづかわぐちかっせん

その後信長は、陸上の包囲を固めたため、本願寺は毛利輝元もうりてるもとに武器や食料の援助を要請しました。

これを受けた輝元は、村上水軍の助けを借り600隻の船を仕立てて物資を届けさせました。

対する信長は、配下の九鬼くき水軍に海上封鎖させますが、村上水軍の船の方が機動力と火力攻撃に船を焼かれ大敗してしまいます。よって、本願寺への物資の調達は成功してしまったのです。

この敗戦から、九鬼水軍の大将・九鬼嘉隆くきよしたかに「燃えない船を作れ!」と命令します。

嘉隆は悩んだ末、超大型の船につい鉄板を貼り大砲を乗せた「鉄甲船てっこうせん」を作りました。

その間信長は、鈴木孫一を脅し、本願寺への加勢に手加減することを約束させました。

第二次木津川口合戦

1578年6月、完成した鉄甲船6隻を率いた嘉隆が伊勢大湊いせおおみなとを出航します。水軍は順調に行っていましたが、陸では信長は少し不安を抱えていました。

それは、三木城攻めなどでの毛利氏の動向でした。少しまずいと考えた信長は、本願寺・毛利との講和の道を探り始めました。

そんな中、木津川口へ現れたのは物資を積んだ村上水軍でした。もちろん目指しているのは本願寺です。

迎え討つ九鬼水軍は鉄甲船の周辺に村上の船を引きつけます。村上の船から鉄砲や火攻めを受けますが鉄甲船はびくともしません。

嘉隆は、動揺する村上水軍の大将船に近づき、次々に撃破していきます。勝てないと悟った村上水軍は沖へと退却していきました。

最終講和・本願寺炎上

この海戦で勝利した信長は和睦交渉わぼくこうしょうを中断し、強気に出ます。

1580年3月、三木城が悲惨な末路を辿ったことを知った本願寺は、ついに信長と講和を決意しました。

8月には、みな本願寺を退去しました。しかし、信長に引渡しの直後、本願寺は原因不明の出火により焼け落ちてしまいました。

これ以上ことを大きくしたくなかった信長は松明たいまつの炎が引火したことにしました。

合戦の影響

信長は焼けてしまった本願寺に手をつけることなく2年後には本能寺の変で死んでしまいます。

そして、のちの天下人となった羽柴秀吉が巨大な大阪城を築きます。しかし、これもまた焼け落ちてしまいました。

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

1572年、徳川軍1万1千に対し武田軍2万5千の戦いです。

「信長包囲網」が形成されてから2年が過ぎた頃

石山合戦の最中である信長が1番遅れてたのが武田軍が攻めてくることです。しかし、信長以上に恐れていたのは、家康でした。

東濃・奥三河・遠江の3方向から同時に攻めてくる戦国最強騎馬軍団を前に、家康は打開策が見つけられなかった。家康は、信長に助けを求めると、信玄は相手にせず城の外には出るなと言われたのでそのまま城に引きこもることに決めました。

この頃、家康の領地にあった砦は3つ倒されていました。

一言坂の戦い

このことを知った家康の家臣は早いうちに敵の兵を減らそうと考え家康に戦い早く行かなくてはとせかしました。これには家康も断りきれず、3千の兵を率いて城から出ることにしました。

そして、ニ俣城ふたまたじょうを攻めている武田勝頼隊を後ろから奇襲する作戦に出ました。

二俣城では、家康の援軍がくると信じ籠城戦を選択しました。

勝頼隊は二俣城を攻める隊と武田軍本隊と合流する経路を調べる別働隊の二手に分かれました。

武田軍本隊は、難なく城を攻略し集合地点を目指して進軍していました。

そのことを知らない家康は二俣城の東側へ向かっていました。しかし、家康が通っている道は武田軍別働隊が奇襲するルートだったのです。

家康がそもことに気づいた時には武田軍別働隊も気づいており徳川軍に突撃してきました。

本田忠勝ほんだただかつが軍を率いて家康は城の方へ退却していきました。

武田軍別働隊は家康を追う隊と戦う隊に分かれます。

数で劣っていた忠勝隊でしたが家康が川を渡り切るまでが勝負だと考え、死を覚悟し騎馬隊の突撃を防いでいました。そして、家康が川を渡り切ったのを確認すると、背後の武田隊から突破つることを試みました。忠勝と数名の兵は突破に成功し退却することができました。

互いの戦略

この退却戦で痛い目にあった家康は、二俣城を救出することはせず、城に籠ることとしました。

とうとう二俣城が破れてしまった頃、織田軍からの援軍3千が城へ到着していました。

また、武田軍は織田領まで進軍を進めていました。ピンチになった家康は籠城戦を決意しました。

一方の武田軍は次の作戦に出ました。

武田軍の作戦

武田信玄の具合が悪くなったので家康のいる城は攻撃をせず、その先の吉田城へ向かうと嘘の情報を浜松の城下町へ流す。

戦う気がないと知った徳川軍は後方から奇襲を仕掛けてくるはずなので、そこを返り討ちする。

結構する場所は、吉田城へ向かう途中にある三方ヶ原の開けた場所。

もし、奇襲されなくても吉田城を攻略することが容易になる。

忍びが噂を流したので、信玄は重症、武田軍は浜松城を攻めず吉田城に向けて動き出したという噂が町中で広がりました。当然ながら家康の耳にもこの噂は入りました。

噂が広まった2日後武田軍は、焦る素振りで行動を開始しします。

これに家康はある作戦を立てました。

家康の戦略

武田軍が三方ヶ原を抜けた頃合いを見計らって囲い込むような陣形で奇襲をかける。

決戦

武田軍2万5千が三方ヶ原台地を西に向かい始めた頃、徳川・織田連合軍は1万1千は浜松城を後にし北上を開始しました。

三方ヶ原台地にはいると家康の隊を真ん中に鶴翼かくよくの陣形へと陣を整え西に向け進軍しました。

いよいよ武田軍の最後尾にたどり着いたと思った瞬間、家康軍の1番右側の隊が武田軍の戦略に気付きました。急ぎ全軍の進軍を止める伝達を行うも、横に広がった陣形ではとても時間がかかってしまい間に合いません。

武田信玄の掛け声を合図に射撃音が響き渡り、戦いが始まりました。

射撃音にうろたえていた徳川・織田連合軍に戦国最強騎馬隊が突撃を開始しされました。

最初のうちは互角に戦えていた徳川・織田連合軍でしたが、数で劣っていたので少しずつ隊列が崩れていきます。

開始1時間で多くのものが討ち死にし挙げ句の果てに、援軍の織田軍が退却し始めました。それを気に徳川軍の士気は下がり始め闘い続けるには困難な状況になりました。

家康は、忠勝が背後を守る中数名の者に囲まれ戦線を離脱し浜松城へ退却することにしました。

家康を逃すため多くの家臣が討ち死にするなど、2時間の戦いで武田軍は200兵の死傷者に対し、徳川・織田連合軍は3千兵を超える死傷者を出しました。

そして、武田軍の大勝利で戦いの幕は閉じたのでした。

戦いのその後

家康はこの戦いを教訓に徹底した情報収集に基づく戦略立案を行うようになりなりました。

また、武田信玄や武田家臣への尊敬の念も抱き、武田流築城術ちくじょうじゅつの導入や、武田滅亡後に59年 26歳 尾張国を統一する。

1560年 27歳 桶狭間の戦いが始まる。

 

 

今川義元を倒したことで、桶狭間の戦いが終わる。

1562年 29歳 徳川家康と同盟を結ぶ。

1567年 34歳 稲葉山城(岐阜城)を攻める。ここを本拠地とした。

1568年 35歳 室町幕府第15将軍に足利義昭を支持し、手助けをする。

1570年 37歳

姉川の戦いで家康との連合軍が、浅井長政・朝倉義景の連合軍を倒す。

 

石山戦争が始まる。

 

1571年 38歳

比叡山延暦寺を焼討にする。

 

長島一向一揆へ攻撃する。(1回目)

 

1572年 39歳 三方ヶ原の戦いで家康との連合軍は武田信玄に敗れる。

1573年 40歳

足利義昭を追放する。よって、室町幕府のを滅ぼした。

 

長島一向一揆へ攻撃する。(2回目)

 

1574年 41歳 長島一向一揆へ攻撃する。(3回目)その後、鎮圧した。

1575年 42歳

長篠の戦いで家康との連合軍が武田勝頼を倒す。

 

越前一向一揆の鎮圧。

 

1576年 43歳 安土城を築く。

1580年 47歳 石山戦争が終わる。

1582年 49歳

天目残の戦いで、武田勝頼が敗死し武田家滅亡。

 

本能寺の変で自害する。

 

 

 

織田信長とはどんな人?

 

織田信長の人物像を想像できますか?

 

天下統一の一歩手前まで行ったのだから優秀な武将というイメージが強いと思います。しかし、実はとても変わり者だったみたいです。

 

織田信長の性格をざっくりまとめるとこのようになります。

 

何事にも動じない

判断力・洞察力が優れている

新しい物好き

アイディアマン

頭が良い

漢字で表すと「烈」

身内を大切にするが、歯向かうものには容赦ない

このような性格と言われるようになったエピソードを時代の流れとともに見ていきましょう。

「性格」大うつけ者

若い頃の信長は「大うつけ」=大バカ者と言われるほどめちゃくちゃな性格をしていたみたいなんです。もう少しで天下を取っていた男のことを言っているとは思いませんよね。

 

そもそもなんで「大うつけ者」と呼ばれるようになったんでしょう。

 

理由の1つに信長の派手なファッションにあったようです。

 

まげは頭の上で束ねただけ。

 

浴衣の袖を外し動きやすい格好。

 

腰のひょうたんをぶらさげていた。

 

袴は膝ほどの長さのもの。柄は、虎柄や豹柄と派手なものが多い。

 

想像すると浮いてしまいそうな格好ですよね。

 

またこんなエピソードを発見しました。

 

なんと!女装して男を引っ掛けて、からかっていたそうです!!

 

こんな信長に、両親だけでなく教育係のじいやも頭を悩ませていました。

 

そんなある日、信長の父(織田信秀)が死んでしまいました。

 

父の葬式で信長は、焼香の灰を父の位牌へ投げつけたというエピソードも発見しました!

 

「性格」判断力・洞察力・何事にも動じない

父の死後、信長は織田家の跡を継ぐという大きな問題に直面していました。

 

さらには教育係のじいやは信長の性根を叩き直そうと命懸けの説教と称して自害しました。

 

母は、信長を嫌い弟に織田家を継いでほしいと思もっていました。しかし、母と弟の悪巧みをいち早く察した信長は弟を殺害します。

 

父やじいやの死、弟殺害を経て今までの行いを改めたのか、元々の才能なのかその後の信長は、メキメキと頭角を現していきます。

 

そして、桶狭間の戦いが始まります。

 

相手は、信長よりも格上の今川義元です。

 

今川義元の軍が2万5千〜4万5千に対し、信長の軍は5千程度でした。

 

この差を信長はどう埋めたのでしょう。

 

それは、大粒の雨で視界の悪い中、今川軍の本陣へ奇襲するという戦略でした。

 

この戦略で信長は勝利しました。

 

信長の、冷静に戦況を見極める判断力・敵の位置を正確に探る洞察力・そして格上の相手でも臆さなずに挑めるほどの肝の座りっぷりが勝利へ導いたのかもしれませんね。

 

「性格」新しい物好き・アイディアマン

当時の日本は海外との貿易が盛んでした。そして、信長は新しい物が大好き!!

 

だから信長はどんどん海外の文化を取り入れていきました。

 

普段の服装から戦う時の服まで、外国産のものを愛用していたみたいです。また、家具や食器類なんかも外国のものを取り入れていました。

 

こうした新しい物好きの性格が特に生かされたのが、長篠の戦いです!

 

相手は、武田勝頼が率いる武田軍です!この戦いの前に、信長と家康は同盟を組んでいてので家康と合同での戦いになりました。(織田・徳川連合軍)

 

武田勝頼とは、武田信玄の息子。

 

武田軍は騎馬隊が有名でした。

 

騎馬隊相手に信長はどう戦ったかというと、1000丁もの鉄砲でした!

 

この時代の鉄砲は連続で打つことができ無いので戦いには不向きとされていました。

 

しかし、この問題を信長の一つのアイディアで解決してしまいます!

 

どんなアイディアだったのでしょうか。

 

それは、連続で打てない穴を埋めるために「3段撃ち」という方法を思いつきました。

 

3段撃ちとは

 

1列目が打つとすぐに交代し2列目が前に出てきます。2列目3列目が打つ間に1列目の人がもう一度打つ準備をしておきます。

 

2列目が打ち終わると3列目が前に出ます。3列目1列目が打つ間に2列目の人がもう一度打つ準備をしておきます。これを繰り返し攻撃を止めないようにします。

 

 

その結果、武田軍の騎馬隊はあっという間に壊滅状態になり、たった8時間で織田・家康連合軍の勝利が決まりました。

 

「性格」経済も強い

今までの戦いで素晴らしい結果を残してきましたね!

 

今後、戦いに勝ち続けると膨大な量の領土を持つことになります。

 

信長が領土を収める為に注目したのが「楽市楽座」でした。

 

「楽市楽座」とは

簡単にいうと、誰でも簡単に商売ができたり関所(国の国境)をこえる時にかかる税を廃止したりすること。また「座」と呼ばれる商業の同業者組合を禁止すること。

 

「楽市楽座」をすることで商業が活発化し国が豊かになりました。

 

「性格」漢字で表すと「烈」、身内を大切にするが、刃向かうものには容赦はない

信長を漢字1字で表すなら「烈」と言われています。

 

「烈」の意味

 

ひどい・厳しいという意味があります。

 

ではなぜ、「烈」と言われるようになったのでしょうか。

 

理由の1つに信長は身内を大切にするが、刃向かうものには容赦はなかったようです。

 

比叡山延暦寺の焼討では、女・子供関係なく皆焼き殺しています。このようなことを比喩した言葉「第6天魔王」と呼ばれるようになりました。

 

このようなことをしていた信長の性格とは真反対の人物明智光秀によってここから信長の人生は変わっていきました。

 

それは、皆さんもよく知っている本能寺の変です。

 

元々、信長の家臣をしていた光秀に裏切られ信長は、自害して生涯を終えました。

 

代表的な戦い3つ

ここまで信長の「性格」について迫ってきましたがここからは上記で少し触れた3つの戦いについてより詳しく見ていきましょう。

 

桶狭間の戦い

 

 

戦国時代中期1560年(永禄3年)5月尾張国と三河国の境(愛知県名古屋市と豊明市をまたがる桶狭間山)で起こった戦いです。

 

相手は今川義元率いる今川軍。今川軍の数は2万5千〜4万5千に対して織田軍の数は5千程。

 

では、なぜこの戦いが起こったのでしょう。

 

義元はこの時、駿河・遠江とおとうみ・三河みかわを支配していました。北の武田家、東の北条家と三国同盟を結び西の尾張を一気に制圧し、領土をさらに広げようとしていました。

 

この時の織田家は尾張を制圧したばかりで左右のつながりが薄く、多くの戦力を集めることが困難でした。

 

このことを知っていた義元の考えは、早いうちに制圧しようというものでした。

 

今川軍の戦略

織田軍の砦を一つ一つ崩し尾張国まで進み、信長の首をとるという戦力を立てていました。

 

軍の数が大きく上回っていたので義元はこの戦いは負けることはないとたかを括くくっていました。

 

織田軍の戦略

今田軍は、戦力が多いので砦を一つ一つ奪いにくると踏んでいました。

 

ですので、今川本体が大高城に入る前に決着をつけるということを目的としていました。

 

つまり、今川軍が砦に気を取られている時に今川軍の本陣が手薄になると考え、そこを狙うという戦力でした。

 

戦いの開幕

5月19日午前3時松平元康隊の奇襲により戦いが始まりました。

 

松平元康は2万5千の兵で佐久間盛重(400)が守る丸根まるね砦を攻撃しました。

 

1時間後には朝比奈泰朝あさひなやすもと隊が鷲津わしづ砦に向けって出発しました。

 

この一報を聞いた信長はいよいよ動き出しました。

 

午前6時、信長は今川本体へ向かいます。この時、本当の信長の作戦は今川軍に情報が漏れないように家臣にも伝えていなかったのです。

 

全ては、義元を油断させ沓掛くつかけ城から出さすためでした。

 

信長は、「これから今川の首を取りに行く。」と言うと数名の家臣を連れ城を出ていきました。信長に置いておいかれた家臣らはその後を急いで追っていました。

 

信長は熱田神宮で勝利祈願をしたそうです。本当にしたかは定かではありませんが、織田軍の集合場所だったことは間違いありません。

 

午前9時、総勢2千が熱田あつた神宮に集結しました。

 

この時、丸根砦の佐久間盛重が松平隊に打ち取られていました。また、同時刻に鷲津砦も討ち取られていました。

 

よって、尾張攻め5千の部隊が進軍し始めました。この報告を受けた義元は沓掛城を出発し大高城へ向かいました。

 

一方、信長も義元が動きだした報告を受け中嶋砦の救援に向かいました。

 

午後1時、信長が中嶋砦へ到着したことで間一髪のとこで中嶋砦を守ることができました。

 

また、信長が到着したことで松平隊、朝比奈隊は一旦その場から引きました。

 

今川本体は大高城まであと3キロのところまで迫っていました。(桶狭間山付近)ここで少し休憩を取った義元は山の中で周りが見えないくらいの豪雨の遭います。

 

義元が休憩を取っている情報を聞いた信長はこの雨を味方に進軍しました。桶狭間山にたどり着いた信長は間髪いれずに、今川軍に突撃しました。

 

いきなりの奇襲に今川軍は大混乱になり、多くの兵士は逃げ去ってしまいました。

 

今川は状況がわからぬまま大高城方面へ逃げましたが織田軍に追いつかれ、信長の家臣毛利良勝がトドメを刺しました。

 

奇襲開始からわずか1時間という短期決戦で幕を閉じたのでした。

 

戦いのその後

今川軍に今川義元の死の一報が伝わると前線で戦っていた今川軍は逃げるように撤退していきました。また、今川軍の沓掛城・大高城は織田の城となりました。最後まで抵抗していた鳴海城の岡部元信も義元の首と交換で城を織田へ渡しました。

 

なお、今川軍で活躍していた松平元康はこれを境に今川家から手を引き故郷の三河国の岡崎城へ行きました。のちに、徳川家康として頭角を表すことになります。そして、信長と家康は同盟を組み、西へ攻めるための糸口を掴んでいきます。

 

長篠の戦い

 

 

1575年5月、信長と家康率いる織田・徳川連合軍3万8千と武田勝頼率いる武田軍1万5千が三河国長篠城(愛知県新城市長篠)で繰り広げられた戦いです。

 

では、なぜこの戦いは起こってのでしょうか。経緯から戦いの最後まで徹底解説していきます!

 

勝頼は、父(信玄)の遺志を継ぎ、三河へ侵攻していきました。瞬く間に「明知城」「高天神城」などを攻め、信長・家康の領地を奪っていきました。

 

そして、次に狙ったのが家康の領地である「長篠城」でした。

 

元々長篠の戦いは家康対勝頼の戦いでした。

 

しかし信長と家康は同盟を結んでいた為、信長は救援をしに行くことになりました。

 

当時、長篠城を守っていたのは500人ほどでした。そこへ、1万5千の兵が攻め込みましたが、多くの備蓄と武器なども十分に揃ってたのでなんとか持ち堪えていました。しかし、援軍がなければ時間の問題で負けてしまいます。そんな中、鳥居強右衛門が岡崎城へ援軍を頼みに向かいました。

 

一方の岡崎城でも、援軍を送ろうと準備をしていました。しかし、家康の軍だけでは負けると判断した為、信長に援軍の要請をしました。

 

鳥居強右衛門が岡崎城へ着いた時には援軍の準備は整っていました。喜んだ鳥居強右衛門は、長篠城へ戻る途中に援軍がくることを伝えるため狼煙をあげました。

 

しかし、武田軍見つかり捕まってしまいます。武田軍は「援軍は来ないから城を開け渡せ!」と嘘を皆に伝えるように命じましたが、鳥居強右衛門は、「あと2、3日で援軍がくるから持ちこたえろ。」と命がけで伝えました。

 

これを聞いた兵士たちの士気が高まりなんとか援軍の到着まで持ち堪えました。

 

織田・徳川連合軍が到着後、設楽原(愛知県新城市)に馬防柵を設置しました。

 

〜信長の戦略〜

 

①相手からの攻撃してきた所を狙う作戦。つまり、武田軍の騎馬隊を柵でしのぎ、鉄砲で攻撃をするということ。

 

②地形を利用する。設楽原は見通しの悪い場所だが、自軍を分散して置く事で敵から見えにくくした。

 

信長の予想通り武田軍は騎馬隊で攻め込んできました。見通しの悪い場所(狭い空間)では、機動力が武器の騎馬隊の動きを止めることができました。ここぞとばかりに鉄砲隊は一斉射撃しました。

 

これには、騎馬隊も成す術がありませんでした。

 

この時代の鉄砲の性能は?

①命中率が低い

 

②連射はできない

 

③雨に濡れると使えない

 

→防御に適していた。

 

敵を十分引き付けて一斉射撃が効果的!!

 

織田・徳川軍の奇襲により、武田軍の拠点が陥落した報告が勝頼の耳の届く時には、多くの家臣たちも命を落としていました。

 

何人もの人は逃げ出してしまい武田軍の敗北に終わりました。

 

信長が勝てた理由1〈兵力の回復力〉

長篠の戦いの前、三方ヶ原の戦いがありました。この時の相手は武田信玄です。

 

織田・徳川連合軍は相当な戦力を失っていました。しかし、信玄の死により戦局は大きく変わることになります。

 

信玄が死んだことで武田軍は一度本国へ撤退しました。

 

この間に信長は将軍〈足利義昭〉を追放し、室町幕府を滅亡させました。また、朝倉・浅井・三好などの反信長勢力を一気に滅ぼしてしまいました。

 

こうして、勝頼が長篠城に攻め込む頃には、信長は3万もの勢力集めることができたのです。

 

信長が勝てた理由2〈武田家の家臣と勝頼の対立〉

武田信玄はカリスマ性とリーダーシップを兼ねそろえた武将でした。しかし、信玄の死により勝頼は信玄の4男でありながら、本来武田家を継ぐこととなったのです。

 

勝頼が後を継ぐことになった理由は、兄の失踪や死が原因でした。

 

そんな形で後を継ぐ勝頼を、古い家臣らはなかなか認めることができませんでした。その為、長篠の戦いで足並みを揃えることができなっかたのです。

 

信長が勝てた理由3〈最新兵器の導入〉

織田・徳川連合軍の方が数の上では、武田軍に勝っていました。しかし、決して油断することなく戦略を練りに練っていました。

 

当時の主な兵器といえば、弓矢や長槍、日本刀でしたが、信長は1000丁の鉄砲を用意しました。また、当時の日本では異例の戦法を考えていました。それが3段撃ちです。

 

本能寺の変

 

 

1582年6月21日、本能寺(京都)で家臣の明智光秀の裏切りによって起こった戦いです。また、本能寺は信長の死んだ場所となります。

 

明智軍1万3千に対し、織田軍は30ほどでした。

 

では、どのようにして襲撃したのでしょうか。

 

光秀は自分の軍に対し、

 

明智光秀
明智光秀
信長様が大軍を見てみたいとおっしゃっているので援軍へ向かう前に本能寺へ行くぞ。

 

と嘘をつきました。

 

また、本能寺へ着く前、

 

明智光秀
明智光秀
敵は本能寺にあり!信長様を助けに急ぐぞ!

 

と言い、軍を戦闘体制にしました。

 

このようにして、本能寺を攻めたとされています。

 

このことの気づいた信長は光秀の裏切りに気づけなかったこと、安心しきって少ない軍で本能寺にいたこと、少しの油断がこの事態を引き起こしてしまったのだと後悔していました。

 

織田信長
織田信長
是非もなし。

 

信長は自害し本能寺の変は幕を閉じました。

 

明智光秀の人物像と裏切った理由

明智光秀

 

信長の家臣

戦国武将

本能寺の変の実行者

 

信長も光秀のことを認めておりとても大切にしていました。

 

ではなぜ光秀は信長を裏切ったのでしょうか。

 

理由は諸説ありますがいくつかご紹介します。

 

諸説1〈信長パワハラ説〉

 

信長は、光秀に対し髪を引っ張ったり殴ったりと暴力を振るっていたという話が残っています。その暴力にキレた光秀は復讐したのではないかと言われています。

 

諸説2〈光秀野望説〉

 

光秀は実は切れ者だったと言われています。なぜなら、比叡山延暦寺の焼討の実質的な実行犯は光秀だったからです。また、織田家の家臣の中で城を1番に持ったのは光秀でした。このように実は切れ者の光秀は、天下を取ろうと目論んでいたのかもしれません。

 

諸説3〈敵討ち説〉

 

人質になっていた光秀の母が信長のせいで殺されてしまったことへの敵討ちをしたのではないかと言われています。

 

その他の戦い

これまで、有名な3つの戦いをご紹介してきましたが、まだまだ信長の戦いはあります!

 

一つ一つ解説していきます!

 

姉川の戦い

 

 

1570年(元亀元年)7月30日 戦国中期、織田・徳川連合軍2万5千に対し浅井・朝倉連合軍1万8千の戦いです。場所は、(滋賀県長浜市姉川河原)です。

 

合戦までの経緯

これまで、各国の大名や豪族を従わせてきました。海の重要性を知っていた信長は、一刻も早く若狭わかさ周辺の海を手に入れようとしていました。

 

越前えちぜん・若狭・丹後たんごの3国の国を治める朝倉家の朝倉義景あさくらよしかげの元へ信長の下へ使えるように何度も要請したが、それに応えてはくれませんでした。

 

ついに、耐えられなくなった信長は越前へ攻撃を開始し、順調にいっていました。

 

しかし、お市から連絡があり浅井長政あさいながまさの裏切りが判明しました。信長は一度岐阜城へ戻りました。

 

浅井長政が裏切った理由は、元々朝倉義景との繋がりがあり同盟関係であった為。

 

明智光秀も浅井軍の攻撃を必死でしのぎ岐阜城へ戻りました。

 

浅井らは朝倉へ援軍を呼ぶ手配を始めていました。

 

その頃、信長は京を立ち刈安尾城かりやすおじょうへ1万5千の軍勢で向かってました。また、佐和山城さわやまじょうへは5千の軍を向かわせています。

 

2箇所から攻めることで朝倉の出方を伺いつつ、進行していくことができました。

 

この時の朝倉への援軍要請は、まだ届いていません。

 

刈安尾城かりやすおじょうでは、木下秀吉が戦わずして奪い取ることに成功していました。一方佐和山城では、六角残党軍を倒しながら佐和山城を包囲し終わっていました。

 

浅井は、2つの城が包囲されていることを知りましたが、信長の罠かもしれないと朝倉からの援軍を待つことのしました。

 

浅井がなかなか出てこないや、朝倉の援軍が来ることから信長は浅井のいる小谷城へ向かいました。

 

小谷城の周辺へ着いた信長は、浅井を引きずり出すために周辺の城下町に火を放ち、小谷城へ発砲しました。しかし、浅井は全く動こうとしませんでした。

 

ここで、朝倉の援軍が到着するといいう連絡が入ります。

 

信長は、ここで朝倉と浅井の軍に挟み撃ちになるのは危険と思い横山城のそばにある小高い丘へ移動しました。ここに徳川軍と合流しました。

 

開戦

両軍は姉川を挟む形で軍を配置しました。戦いは、浅井軍の遠藤直経えんどうなおつぐの鉄砲射撃で幕を切りました。

 

直経隊が姉川を渡り、柴田勝家隊に突撃しどんどん押して行きます。

その勢いに圧倒された織田軍の他の隊まで押され、織田軍の隊列は徐々に崩れていきました。

 

一方の徳川軍と朝倉軍も鉄砲射撃を合図に姉川を挟んで一進一体の攻防となりました。数で劣っていて徳川軍は徐々に押されていきます。

 

昔、今川の人質時代に学んだ、劣勢側の闘い方を思い出し、全軍を少し後退させ朝倉軍に姉川を渡れせました。

 

渡ってきた朝倉軍の左右から攻撃するように指示しました。この作戦が成功し朝倉軍が徐々に劣勢となっていきました。

 

引こうとした朝倉軍でしたが、姉川が邪魔となり引くに引けない状態になりました。

 

一方の信長はどんどん押され、信長本陣まであと少しのとこまで迫っていました。

 

これを知った横山城を包囲していた隊が助けに入りました。すると、織田軍の士気を回復させることに成功しました。

 

徳川軍の攻撃で劣勢となっていた朝倉軍はついに総崩れしてしまいました。朝倉軍は合戦が始まって数時間経たないうちに撤退してしまいました。

 

朝倉軍の撤退が予定外だった浅井軍は次の秘策を実行しました。

 

浅井軍の秘策

 

佐和山城と横山城にいた隊を出撃させ、織田・徳川連合軍を攻める作戦。

 

佐和山城は2千の兵を集め姉川へ向かいました。

 

信長の後方から攻めてきた2千に対抗するため信長は新たに指示を送ります。

 

信長の指示

 

全方で戦っていた部隊に、引き返すよう要請した。

 

家康には、全軍で浅井軍の側面から攻撃するように伝えた。

 

数で劣っていた信長本陣ですが、要請した隊がすぐに駆けつけたことのよりあっという間に浅井の追撃隊を跳ね返しました。

 

ここまで強い織田軍に、負けを悟った遠藤直経は落ちていた浅井軍の首をもち織田軍になりすましました。

 

もう少しで信長本陣まで迫った時正体がバレてしまいます。そんまま、直経は討ち取られてしまいました。

 

直経が討ち取られたことを知った浅井長政は、小谷城まで全軍を撤退させました。

 

小谷城に着いた浅井は籠城戦の備え城を固めました。

 

しかし、信長はこれ以上の被害を抑えるため深追いはしませんでした。

 

こうして、織田・徳川連合軍の勝利で姉川の戦いは幕を閉じたのでした。

 

戦いの影響

影響1

 

浅井・朝倉軍はまだ余力が残っており比叡山の僧侶などと手を組み戦いを繰り返していました。この戦いで、信長の戦力を殺されました。

 

よって、比叡山延暦寺の焼討が起こったのです。

 

影響2

 

この戦いがきっかけで本願寺、武田、畠山らが織田に対抗する兵をあげた「信長包囲網」が作られ、浅井家もその仲間になりました。

 

この、「信長包囲網」がこれから信長を苦しめていくこととなります。

 

比叡山延暦寺の焼討

 

 

1571年9月30日 織田軍3万に対し延暦寺山門衆4千 延暦寺(滋賀県大津市にある)で行われた戦いです。

 

女、子供関係なく多くの人が殺されたと言われています。

 

信長が怒った理由

姉川の戦いからの影響

 

浅井・朝倉軍はまだ余力が残っており比叡山の僧侶などと手を組み戦いを繰り返していました。この戦いで、信長の戦力を殺されました。

 

僧侶たちの堕落

 

『多聞院日記たもんいんにっき』には、このようなことが書かれていました。

 

僧侶は、修行中であるのにもかかわらず動物を殺し食べていました。

 

また、女性と性行為を行なっていました。

 

このように、僧侶としてあるまじき行為を繰り返してことに信長はこれはダメだとずっと思っていました。

 

延暦寺の僧侶へ出した条件

①信長側に来るのなら領地を返す

 

②仏教的に片方の味方をするのがダメなら中立な立場でいてほいい

 

③浅井・朝倉の味方をするのなら焼討にする

 

これに対し、僧侶たちが出した答えは③だったのです。

 

戦い

早々に信長は、3万もの兵を延暦寺へ送り込みました。

 

そして、比叡山のふもとにある民家などに火を放ちました。このことで、数千人もの命がなくなります。

 

その後、比叡山延暦寺は復活することは、ありませんでした。

 

石山戦争いしやまかっせん

 

 

1570年〜1580年の長い間繰り広げられた織田軍対石山本願寺の壮絶な戦いです。

 

石山本願寺

親鸞しんらんが「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土とといた浄土真宗は、庶民から圧倒的に支持されていました。その中で、「講こう」と呼ばれる集会で信者の団結を呼ぶかけました。結果、勢力をどんどん拡大させていきました。

 

「講」で団結した信者たちは、上層の支配者たちに不満を爆発させ、「一向一揆」を各地で起こしていました。

 

これを仕切っていたのが、石山本願寺でした。

 

戦争のきっかけ

本願寺はただのお寺ではなく大きな勢力を持っていました。

 

一方信長は、日本統一を目指し侵略していました。そこで、必要となる資金を色々な所へ要求していました。

 

本願寺に対しても5千貫(現在の約5億円)を要求しました。

 

金・物・人の集まる場所は押さえておきたい信長は本願寺に対し、

 

「金を用意しろ。さもなくば、力づくで町を我が物にするぞ」と言います。

 

信長の勢力に危機感を感じた本願寺でしたが、仕方なく金を支払うことにしました。

 

しかし、だんだん信長と足利義昭の関係が悪化しました。

 

本願寺の立地に目をつけていた信長は「その土地くれない?他の土地と金はあげるから!」と提案しました。しかし、本願寺もこれには応えられませんでした。

 

義昭に追放され本願寺に身を寄せていた近衛前久このえさきひさの進言により、本願寺は信長と対立することを決めます。そして、摂津で織田軍と交戦中の三好三人衆に加勢することにしました。

 

ここまでを図にするとこうなります↓

 

信長+義昭vs三好(with 近衛)

 

 

信長が本能寺をカツアゲする

 

 

信長vs義昭

 

信長vs三好(with 本願寺)

 

長島と越前の一向一揆の開戦

この後、すぐに石山合戦は幕を開けました。しかし、初めはすぐに停戦を迎えます。

 

信長と本願寺は直接対決はしていませんが、信長の本拠・尾張のすぐ目の前にある、海上交易の要所でもある伊勢長島で一揆勢をやらせ、信長を苦しめました。

 

そうかと思えば、信長に茶碗や掛け軸を送ってみたり、表向きの和解をしたり。。。

 

1573年信長は朝倉義景を滅ぼし、越前を手に入れます。しかし、守護代に対する不満が大きくなり領民は決起します。

 

越後には、本願寺派の人が多かった為、この翌年には一向一揆化します。そして、織田方・旧朝倉方の人間を追い出しました。

 

これを知った本願寺は、越前を奪うため下間頼照しもつまらいしょうを派遣し、越前の守護として支配させました。

 

一揆殲滅いっきせんめつ

長島では、大きな損害を被り、せっかく手に入れた越前も一向一揆に奪われてしまい、ついに信長がキレてしまいます。

 

1574年に長島一向一揆の殲滅せんめつにかかりました。

 

信長は、全国から8万の大勢力を、陸と海から城を包囲し兵糧攻めにしました。たまらず降伏しに出てきた一揆勢を皆殺しにしていきます。

 

兵糧攻めとは、食料や物資を調達する道を断たせ、敵の攻撃力を弱体化させる攻め方のこと。

 

それに怒った一揆勢は捨て身の攻撃を仕掛けました。これにより、織田軍は多くの戦死者を出してしまいました。

 

しかし信長は、城内の者を1人も逃すことなく、柵で押し込んで火を放ち、2万の一揆勢を焼き殺しました。

 

一方の越前では、本願寺から派遣された下間頼照しもつまらいしょうの悪政に不満が募り、内部分裂が始まっていました。

 

信長はこの隙を逃さず長島と同様のやり方で越前を制圧します。

 

本願寺は身の危険を感じたのか、ひとまず信長に詫びを入れ和議を結んだのでした。

 

天王寺砦の戦い

ところが1576年の春、足利義昭の呼びかけで、本願寺はまたも兵をあげたのでした。

 

信長は、6つの砦を築いて本願寺を3方向から包囲します。しかし、南の木津砦きづとりで・北からは楼ろうの岸砦を拠点とし海上輸送によって本願寺への補給は続いていました。

 

そこで、信長は中間地点の天王寺砦に明智光秀・佐久間信栄さくまのぶひでを入れ、木津砦を落しにかかります。

 

織田軍が攻撃を開始すると、楼の岸砦から1万の兵が織田軍の横腹に襲いかかりました。

 

1万の兵に、腕の立つスナイパーも加勢して、強烈な銃撃を与えてきます。

 

この隊に織田軍の隊が敗れました。光秀はなんとか天王寺砦に逃げ込みましたが、このままでは完全に負けてしまうと考え、信長に援軍要請をします。

 

これを聞いた信長は急いで兵を集めますが、突然の召集でなかなか集めることができませんでした。そこで、信長自ら3千の兵をかき集め出陣します。

 

足に被弾しながらもなんとか包囲を突破し砦に入ることができました。

 

信長自ら救援しにきたことの喜んでいた光秀隊と共に、休む間もなく外へ討って出ると敵兵は動揺し本願寺へ逃げていきました。

 

第一次木津川口合戦きづかわぐちかっせん

その後信長は、陸上の包囲を固めたため、本願寺は毛利輝元もうりてるもとに武器や食料の援助を要請しました。

 

これを受けた輝元は、村上水軍の助けを借り600隻の船を仕立てて物資を届けさせました。

 

対する信長は、配下の九鬼くき水軍に海上封鎖させますが、村上水軍の船の方が機動力と火力攻撃に船を焼かれ大敗してしまいます。よって、本願寺への物資の調達は成功してしまったのです。

 

この敗戦から、九鬼水軍の大将・九鬼嘉隆くきよしたかに「燃えない船を作れ!」と命令します。

 

嘉隆は悩んだ末、超大型の船につい鉄板を貼り大砲を乗せた「鉄甲船てっこうせん」を作りました。

 

その間信長は、鈴木孫一を脅し、本願寺への加勢に手加減することを約束させました。

 

第二次木津川口合戦

1578年6月、完成した鉄甲船6隻を率いた嘉隆が伊勢大湊いせおおみなとを出航します。水軍は順調に行っていましたが、陸では信長は少し不安を抱えていました。

 

それは、三木城攻めなどでの毛利氏の動向でした。少しまずいと考えた信長は、本願寺・毛利との講和の道を探り始めました。

 

そんな中、木津川口へ現れたのは物資を積んだ村上水軍でした。もちろん目指しているのは本願寺です。

 

迎え討つ九鬼水軍は鉄甲船の周辺に村上の船を引きつけます。村上の船から鉄砲や火攻めを受けますが鉄甲船はびくともしません。

 

嘉隆は、動揺する村上水軍の大将船に近づき、次々に撃破していきます。勝てないと悟った村上水軍は沖へと退却していきました。

 

最終講和・本願寺炎上

この海戦で勝利した信長は和睦交渉わぼくこうしょうを中断し、強気に出ます。

 

1580年3月、三木城が悲惨な末路を辿ったことを知った本願寺は、ついに信長と講和を決意しました。

 

8月には、みな本願寺を退去しました。しかし、信長に引渡しの直後、本願寺は原因不明の出火により焼け落ちてしまいました。

 

これ以上ことを大きくしたくなかった信長は松明たいまつの炎が引火したことにしました。

 

合戦の影響

信長は焼けてしまった本願寺に手をつけることなく2年後には本能寺の変で死んでしまいます。

 

そして、のちの天下人となった羽柴秀吉が巨大な大阪城を築きます。しかし、これもまた焼け落ちてしまいました。

 

三方ヶ原の戦い

 

 

1572年、徳川軍1万1千に対し武田軍2万5千の戦いです。

 

「信長包囲網」が形成されてから2年が過ぎた頃

 

石山合戦の最中である信長が1番遅れてたのが武田軍が攻めてくることです。しかし、信長以上に恐れていたのは、家康でした。

 

東濃・奥三河・遠江の3方向から同時に攻めてくる戦国最強騎馬軍団を前に、家康は打開策が見つけられなかった。家康は、信長に助けを求めると、信玄は相手にせず城の外には出るなと言われたのでそのまま城に引きこもることに決めました。

 

この頃、家康の領地にあった砦は3つ倒されていました。

 

一言坂の戦い

このことを知った家康の家臣は早いうちに敵の兵を減らそうと考え家康に戦い早く行かなくてはとせかしました。これには家康も断りきれず、3千の兵を率いて城から出ることにしました。

 

そして、ニ俣城ふたまたじょうを攻めている武田勝頼隊を後ろから奇襲する作戦に出ました。

 

二俣城では、家康の援軍がくると信じ籠城戦を選択しました。

 

勝頼隊は二俣城を攻める隊と武田軍本隊と合流する経路を調べる別働隊の二手に分かれました。

 

武田軍本隊は、難なく城を攻略し集合地点を目指して進軍していました。

 

そのことを知らない家康は二俣城の東側へ向かっていました。しかし、家康が通っている道は武田軍別働隊が奇襲するルートだったのです。

 

家康がそもことに気づいた時には武田軍別働隊も気づいており徳川軍に突撃してきました。

 

本田忠勝ほんだただかつが軍を率いて家康は城の方へ退却していきました。

 

武田軍別働隊は家康を追う隊と戦う隊に分かれます。

 

数で劣っていた忠勝隊でしたが家康が川を渡り切るまでが勝負だと考え、死を覚悟し騎馬隊の突撃を防いでいました。そして、家康が川を渡り切ったのを確認すると、背後の武田隊から突破つることを試みました。忠勝と数名の兵は突破に成功し退却することができました。

 

互いの戦略

この退却戦で痛い目にあった家康は、二俣城を救出することはせず、城に籠ることとしました。

 

とうとう二俣城が破れてしまった頃、織田軍からの援軍3千が城へ到着していました。

 

また、武田軍は織田領まで進軍を進めていました。ピンチになった家康は籠城戦を決意しました。

 

一方の武田軍は次の作戦に出ました。

 

武田軍の作戦

 

武田信玄の具合が悪くなったので家康のいる城は攻撃をせず、その先の吉田城へ向かうと嘘の情報を浜松の城下町へ流す。

 

戦う気がないと知った徳川軍は後方から奇襲を仕掛けてくるはずなので、そこを返り討ちする。

 

結構する場所は、吉田城へ向かう途中にある三方ヶ原の開けた場所。

 

もし、奇襲されなくても吉田城を攻略することが容易になる。

 

忍びが噂を流したので、信玄は重症、武田軍は浜松城を攻めず吉田城に向けて動き出したという噂が町中で広がりました。当然ながら家康の耳にもこの噂は入りました。

 

噂が広まった2日後武田軍は、焦る素振りで行動を開始しします。

 

これに家康はある作戦を立てました。

 

家康の戦略

 

武田軍が三方ヶ原を抜けた頃合いを見計らって囲い込むような陣形で奇襲をかける。

 

決戦

武田軍2万5千が三方ヶ原台地を西に向かい始めた頃、徳川・織田連合軍は1万1千は浜松城を後にし北上を開始しました。

 

三方ヶ原台地にはいると家康の隊を真ん中に鶴翼かくよくの陣形へと陣を整え西に向け進軍しました。

 

いよいよ武田軍の最後尾にたどり着いたと思った瞬間、家康軍の1番右側の隊が武田軍の戦略に気付きました。急ぎ全軍の進軍を止める伝達を行うも、横に広がった陣形ではとても時間がかかってしまい間に合いません。

 

武田信玄の掛け声を合図に射撃音が響き渡り、戦いが始まりました。

 

射撃音にうろたえていた徳川・織田連合軍に戦国最強騎馬隊が突撃を開始しされました。

 

最初のうちは互角に戦えていた徳川・織田連合軍でしたが、数で劣っていたので少しずつ隊列が崩れていきます。

 

開始1時間で多くのものが討ち死にし挙げ句の果てに、援軍の織田軍が退却し始めました。それを気に徳川軍の士気は下がり始め闘い続けるには困難な状況になりました。

 

家康は、忠勝が背後を守る中数名の者に囲まれ戦線を離脱し浜松城へ退却することにしました。

 

家康を逃すため多くの家臣が討ち死にするなど、2時間の戦いで武田軍は200兵の死傷者に対し、徳川・織田連合軍は3千兵を超える死傷者を出しました。

 

そして、武田軍の大勝利で戦いの幕は閉じたのでした。

 

戦いのその後

家康はこの戦いを教訓に徹底した情報収集に基づく戦略立案を行うようになりなりました。

 

また、武田信玄や武田家臣への尊敬の念も抱き、武田流築城術ちくじょうじゅつの導入や、武田滅亡後には武田残党を引き取るなど、負けから多くを学んだ合戦になったのでした。

一方、武田信玄は三河を進軍中に持病が悪化し療養のため自国へ撤退していましたが、その道中急死してしまいました。

信玄の死により「信長包囲網」は実質的になくなってしまいました。

信長は足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させました。そして、権威を回復させます。

徳川家康は態勢を立て直し、領土回復に残力を注ぎました。

そして、2年後織田・徳川は、武田と長篠の戦いで再び再戦を繰り広げます。

織田信長のエピソード

相撲が好き

相撲

安土城に300人の力士を集め競い合わすという相撲大会を開いて楽しんでしたそうです。これは、大相撲のルーツになっているようです。

信長本人が相撲をしていたわけではないのでご注意を!でも、実は強かったとか。。。

初代スイーツ男子

スイーツ

実は信長は甘いものが大好きだったんです!

イエズス会の宣教師のルイス・フロイスから貰った金平糖を信長はもの凄く気に入っていました。また、干し柿が大好物だったという話もあります。ルイス・フロイスが干し柿をお土産として貰ったと書き残していたそうです。

他には、バナナを日本で初めて食べたのは信長だったという話も伝わっています。このバナナはルイス・フロイスが信長に献上したものの中に入っていたそうです。

また、「第六天魔王」と呼ばれていた男とは思えないと思いますが、家康の家臣に手作りのお菓子を振舞ったそうです。勝頼との戦いの勝った信長は、帰る間家康のおもてなしに感動しました。

そのお礼のために後日、安土城へ家康らを招きました。そこで信長が作った「ふりもみこがし」を振舞ったそうです。

「ふりもみこがし」とは、米や麦を炒め粉にし、砂糖を混ぜて形を整えたもの。

怖そうな印象の信長からは想像ができないようなエピソードでしたね。

声がめちゃくちゃ甲高い

信長の声

実は、すごい声が高かったと言われています。

伝説1

500m先でも声が聞こえた。

伝説2

信長の演説で、窓ガラスが割れる。

伝説3

信長の声が耳に響くので鉄砲の音が苦でなくなった。

本当にこんなことが起きるのかというものばかりですが、やはり上記の伝説は大袈裟に言われているようでした。しかし、本当に声が高かったのは事実のようです。

信長の名言

信長が残した名言は数多くあります。その中の3つをご紹介します。

カコダマ
カコダマ
「泣かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

この言葉は信長の言葉ではなく、信長の性格を表した言葉だ!名言ではないので気をつけるんじゃ!

「絶対は、絶対にない!」

無謀なこと、不可能なことに対して、最初から無駄だと諦めない考えだったようです。

織田信長
織田信長
最初から無理と諦めては何もできぬ。たとえどんなに不可能に近いことでも絶対に不可能なことは絶対ない!

「是非に及ばず!」

意味:仕方がない。どうしようもない

本能寺の変の時に蘭丸に対して、言ってセリフです。

蘭丸
蘭丸
光秀らの襲撃です。
織田信長
織田信長
(油断しすぎてしまった。)是非に及ばず。

「攻撃は一点に集中せよ、無駄なことはするな。」

信長が合戦の時に、毎回家臣団に伝えていたセリフです。

織田信長
織田信長
戦いばかりじゃない!日々の生活でも同じことじゃ!

まとめ

いかがでしたでしょうか。

織田信長の性格は、

  • 何事にも動じない
  • 判断力・洞察力が優れている
  • 新しい物好き
  • アイディアマン
  • 頭が良い
  • 漢字で表すと「烈」
  • 身内を大切にするが、歯向かうものには容赦ない

ということでしたね!

信長は、人とは何処か違い飛び抜けたものを持っていましたね!人と違っていてもそれを信じ続けることが大切なのかもしれませんね。

次に、重要な戦いのポイントをまとめておきます!

①桶狭間の戦いについて
戦略:大高城に攻め込む前に本軍を討つ。今川軍が休憩をしているところへの襲撃。
勝敗:織田軍の勝利

②長篠の戦いについて
戦略:相手からの攻撃しててきた所を鉄砲で迎え討つ。また、地形を利用する。設楽原は見通しの悪い場所だが、自軍を分散して置く事で敵から見えにくくした。
勝敗:織田軍の勝利

③本能寺の変について
戦略:奇襲のため、信長の戦略はない。
勝敗:織田信長、自害

すごく俺様な印象の信長でしたが、少し変わった一面や案外優しい一面もあったようです。

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