日本史を学ぶ上で難しいとされるものの一つに荘園がありますよね。よくわからない用語に加えて、複雑に絡み合う土地の制度。嫌になること間違いなしの単元ですよね。
けれども、この荘園を理解すると歴史で理解できることの幅が広がります!
また武士の誕生にも実は荘園が深くかかわっています。
今回は、その荘園についてその成立から衰退まで、詳しくまとめてみました。これを機に歴史好きが増えると嬉しいと思います。
Contents
荘園とは
ここでは、種々の本の定義を見て、荘園の理解を深めていきましょう。
山川の用語集
山川出版編『日本史用語集(改訂版)』(山川出版、二〇一八)を参考に書くとこの様になります。
古代、中世の土地支配の一形態が荘園なのです。8~9世紀にかけて初期荘園と言われるものが現れました。11世紀以後には、本格的な中世荘園と言われるものが出現します。
初期荘園は中央権力者が律令体制下で作ったもので、中世荘園は地方の有力者たちが中央権力者とくっついてできた寄進地系荘園が主でしたが、他にも雑役免系荘園があります。
これが、一応定義です。
「他の本」安田元久編『荘園(日本史小百科)』
安田元久編『荘園(日本史小百科)』(近藤出版社、一九八五)での定義をまとめました。それには、荘園は、八世紀末から十五世紀末にかけてあった巨大な土地の所有を意味するとしています。
所有という言葉が出てきましたね。この所有はただ土地を持ってるという意味ではなくて、収益としての土地生産物が生まれる場所として一定地域の支配あるいは、占有のことをいうとここでは定義されています。
荘園の間違えやすいポイント
安田元久編『荘園(日本史小百科)』(近藤出版社、一九八五)の方が荘園の基本を書いていると思うので、こっちの定義をよりわかりやすく解説します。まず、わかりづらいであろう所有の定義を詳しくみていきましょう。
所有とは収益として利益が得られるという事ですよね。利益が得られる土地生産物とは何でしょうか?
答えは、お米ですよね。この時代、お米が税として集められていました。いわゆる年貢です。その税は決まった量なので、お米がとれれば、とれるほど税にあたらないお米が増えるわけです。
その分、そのお米がたくさんとれる土地の所有者はもうかるわけです。
沢山お米がとれる土地を持っていることを荘園という。
それは、持っている田んぼが税を納めなくていいよと認められた時にいうんだよ。これもポイントだね
この記事では、年貢や税という表記方法が散見しますが、租(官物)の事です。
ご了承下さい
荘園の歴史(荘園誕生以前から初期荘園まで)
ここまで荘園の定義について触れていきました。いまいちわかりづらいですよね。ここでは荘園の誕生から、その種類を詳しく見ていきましょう。参考文献は安田元久編『荘園(日本史小百科)』(近藤出版社、一九八五)と永原慶二『荘園(日本歴史叢書)』(吉川弘文館、一九九八)です。
またその他事典類を参考にしました。
またこれを先に読むとわかりやすいかなと思ったので、税について少し書きます。
有名な税に租・庸・調の三つがあります。
【三つの税】
租・・・班田収受法(後述)によって口分田を与えられた人々に毎年課された。口分田一反(約9.9a)につき稲二束二把(約11キロ)を納めた。収穫量の三割を納めると覚えておくといい。
庸と調は、正年男子(二十歳から六十歳まで)にかかる税のこと。詳しく見ると
庸・・・都で土木事業を強制的にやらされる十日間の労働(歳役)の代わりに麻布二丈六尺(約72cm)もしくはその土地の特産品を納めること
庸・・・絹、糸、綿、布その他特産物を納めさせること
⇒庸と調は中央政府の費用であったため、都へ運ばなければならなかたが、その運搬費は納税者が負担した。
読んでおくとこの後がわかりやすくなると思います。
荘園の前進としての墾田
墾田というのは何でしょうか?
墾田とは未開の地を新しく開墾して手に入れた田んぼまたは、これから開墾する場所のことを言います。
しかし、古代技術での開墾は簡単なことではありませんし、田んぼの手入れも容易ではありません。
ところが、大化の改新で、一定の年齢に達した人に決まった量の田んぼを配って、税を納めさせる班田制がしかれました。
ここで大切なのは、土地は国のものということになっているということですね。だから配れるのです。加えて、ちなみに土地だけではなく、人も国のものになっていることも重要事項です。
けれども、ここで問題が起こります。それは班田が足りないということでした。
班田収受の法は班田を持っている人が亡くなると班田は、国に返還されるが、亡くなる量より班田を新しくもらえる人の方が多くなれば足りなくなるよねぇ。
そこで国は考えます。開墾する場所を増やすことが国司(今でいう県知事(中央からくる))や郡司(国司の部下でその土地の有力者)の功績になるというふうにすれば良いのではないかと。
そして考え出されたのが百万町歩開墾計画でした。
この計画が打ち出されたのは、722年のことで、当時の天皇は元正天皇で、その時政治を行っていたのは長屋王だったよ。覚えておくとテストで出るかもしれないね。
しかし、この計画には欠点がありました。どんなに頑張っ開墾しても、その土地は自分のものならないということでした。
けれども国としては、土地を私有地にしたくないという考えがありました。なので、期限付きで持っててもいいという事にしようと考えました。これが三世一身の法と呼ばれるものでした。
また、もとからある用水路を使って開墾または再開墾した場合は、その土地を開墾した人一代限りの所有を許したんだ。これが一身だね。
出された年は、723年。この時の天皇は元正天皇、政権担当者は、長屋王。覚えおこう。またこの三世一身の法は、養老七年の格とも言うよ。
しかし、これもあまりうまくいきませんでした。というのも、期限が過ぎたら国に戻るためですね。これでは、開墾を頑張ってしてくれません。
そこで、国は最終手段を取りました。それが、荘園の始まりを告げる法。墾田永年私財法です。
これが出されたのは、743年で、天皇は聖武天皇、政権担当者は橘諸兄だよ。覚えておこう。また墾田永年私財法のことを天平15年の格ともいうよ。
土地の私有化を認めたことによって荘園が出現しました。つまり、墾田という国の土地から、私有へと独立したという事です。
しかし、貴族たちの土地の所有が増えると、その増加を止めるために出た命令が加墾禁止令でした。これは、寺院や現地百姓の開墾以外を禁止しました。
しかし、道鏡が失脚すると加墾禁止令は撤回され、その時に墾田永年私財法の制限も同時になくなり、一層貴族の土地所有が増加しました。
また、寺田(お寺の経営を行うために存在した田んぼ)または神田(神社経営を行うために設けられた田んぼ)が残っていたよ。
加えて、お寺や有力貴族などが空閑地(特に何も利用されていない土地)を占有または、買ういうこともあったんだよ。
それらの土地所有の状況から荘園は出現したよ。
初期荘園の登場
この様な状況から荘園は出現しました。それでは、初期荘園について見ていきましょう。初期荘園と呼ばれるものは三つの種類があります。
①自墾地系荘園(有力な貴族、有力な寺社が広大な土地を所有して財力を使って自力で開墾した荘園)
②既墾地系荘園(口分田や零細な開発耕地を寄進または、買うなどで集めた荘園)
③この二つをあわせたもの
この三つが主に初期荘園と呼ばれるものです。
永原慶二『荘園(日本歴史叢書)』(吉川弘文館、一九九八)も参考にしてみましょう。この本によれば、初期荘園が表われた状況には、富豪の輩と呼ばれる人々と関係があるとしています。彼らは、私出挙で利益を出し、困窮した人々を従えて農業経営を行わせました。
また彼らは、中央貴族と未開拓である山野の共同地を囲いこんで大規模に展開しました。
簡単にいうと種(稲)の貸し付けのことだよ。農業は天候に左右されるから、作物が育たず種さえ取れないこともあるよね。だから、種を必要とする人は結構いたよ。そこで、出挙が登場するんだ。
ちなみに国がこれをやることを公出挙、寺社や地方の有力者、中央貴族などが行う事を私出挙というよ。私出挙は、種だけではなくお金や物も貸し出したんだ。
しかし、貸し出す方はいいけど、貸し出された方はなんと私出挙で利息十割、公出挙で5割という莫大な利息を払わなければならなかったんだ。故に没落する人々も多くいたよ。
この没落した人々を使って、富豪の輩は荘園を耕作させたんだ。
荘園の歴史(「延喜の荘園整理令」~「延久の荘園整理令」まで)
ここからは、延喜の荘園整理令から、教科書でも必ず出てくる、延久の荘園整理令までを解説します。
国司や郡司という言葉がここから頻発していきますよ。
荘園を生んだ「延喜の荘園整理令」
まずこの寄進地系荘園を説明する前に、勅旨田の説明をしなければなりませんので、解説します。
勅旨田とは勅旨田とは勅旨とはそもそも天皇のご命令の意味なのです。なので、これを簡単に説明すると皇室領です。天皇の土地ですね。
ただこの勅旨田には問題がありました。これら勅旨田は、空閑地(利用されていない土地で、時には、防人(外国から九州を守るために派遣された、農民)の補給を担った)にまで向かい、また班田民を強制的に耕させる方法を取り農民に負担をかけました。
加えて、勅旨田は不輸租田(税を納めなくてよい田んぼ)だったがために、勅旨田と偽って自分たちの田んぼをつくる人が出現したのです。
これらを抑制するために出された法令こそが、荘園をさらに加速させることになりました。
それが、延喜の荘園整理令です。
①勅旨田禁止
②百姓の土地や家の買取禁止
③空閑地の占有禁止
永原慶二『荘園(日本歴史叢書)』(吉川弘文館、一九九八)によれば、この法令が出された意味としては、勅旨田を禁止したことと班田制の復活でした。
延喜と聞かれたら、醍醐天皇を思い浮かべよう。この醍醐天皇の治世のことを延喜の治というよしっかり覚えておこう。
勅旨田の禁止は種々の問題を抱えていたので、禁止されるのは特別不思議ではありません。問題は二つ目の班田制の復活ですね。
ここまで読むと班田は足りなくなったから没落した様に思いますが、実際は違います。それが、班田収受の法に問題があります。男より女の方がもらえる田んぼが少なかったことがあります。
当時、人々の管理を行っていたのは戸籍です。なので、戸籍の報告には実際は男なのに女と報告して、もらえる田んぼを少なくしました。
加えて、逃亡(田んぼを貰った人が無断で他の場所に移る事)という手段を使う事によって、税を納めることを避けるといった方法などを使いました。
結果、班田制度は崩壊したのです。
しかし、土地の権利者が不明で国務の邪魔にならないものは存続したためあまり効果はありませんでした。
そこで政府は次の策を講じます。
人に税をかけるからこうなるのだと、土地にかけてしまえばよいと考えました。そこで登場するのが、負名体制でした。
これが荘園化を促進させます。
逆転的発想「負名体制」
ここで白羽の矢がたったんが、没落した農民を使役して大規模な土地の経営を行う富豪の輩でした。
彼らに国は口分田などの政府が配給していた土地(これを名という)を預けました。これを請け負うから、名を受け持つ人を負名といいました。そしてこの、人々から土地単位(負名のレベルで大きさが変わる)で税を取ることにしたわけです。
また臨時雑役は一国平均役という物があったよ。これは、荘園や国衙領関係なく課されることがあった税だよ。国の土地が減少していたことが原因で行われたよ。一緒に憶えておくといいね。
私領と職の出現
この時、私領と呼ばれるものが出現したと永原慶二『荘園(日本歴史叢書)』(吉川弘文館、一九九八)に書かれています。
これによれば、私領とは以下の様な特徴があるとしています。
①官物を納める決まりのある田んぼ
②一個人が土地を支配した直営地で、土地を売買できる
③地子(借地料)を取る権利を持つ
④私領の持ち主がその土地を永代売買できる
以上の特徴がありました。
もっとわかりやすく書くと以下の様になります。
この時代の荘園は、上級貴族(藤原氏など)や大寺社の財産形態であり、国から官省符によって保証され、不輸の権の特権をあたえたもの。
⇅
逆にこれら特権が認められないもの。つまり、百姓の治田(小規模)を買い集めたものや官から認められた墾田、再開発地(役所に認可されて配布された公験という土地の権利証を持つ田んぼ)などのこと。これこそが私領
この様にまとめられると思います。
また、実際に税の取り立てを行う郡司も私有化されました。
国司に許可を取らないと郡司にならないのですが、この時代になると、国司に報告する前に、郡司の子どもなどへ譲られるようになりました。彼等郡司は郡司職と呼ばれるようになります。
力を持つ国司
郡司が力を持ち始めるとこれを止める人々が必要になります。
それが郡司の上司である国司でした。国司は、検田権(年貢の納品量を決める)が与えられました。その結果租の量を勝手に決めました。そして更にまずかったのが、政府はノルマを決めて、そのノルマの量の年貢が集まったら、国司の好き勝手にしていいという事にしたのです。
また、国司の認可で立荘(荘園をつくること)も行いました。
その結果、国司は必要以上の租を農民に納めさせることや、自分で作った田んぼを郡司や百姓に強制的に耕させて、収穫をすべて持っていく事もあったのです。
そして、農民や郡司に訴えられることもありました。
またこの様なことが起こったので、郡司たちは納税額を減らすために、名を敢えて耕さないなどの行動を起こしました。
封戸の荘園化
封戸はとは何か?
封戸に関して説明すると、貴族には、位や官、業績などによって食封という俸給と田地が与えられました。このような課戸(税金負担者)が封戸といいます。これが貴族の収入源となりました。
しかし、時代と共にこれがうまくいかなくなると、国司が調達できなくなり「名」にこの封物を割り当てようとしました。そしてこの「名」が封物を生み出す専用の田んぼに変化し封主が所有に変化しました。これを便補所と呼ばれました。
合体!雑役免の荘園
この様な、税の徴収システムが確立されると租税が課された田んぼと課されない田んぼがミックスされたものが登場します。
それが雑役免の荘園です。雑役免の荘園を興福寺を参考に見ていきましょう!
興福寺の雑役免田の内訳は以下の通りです。
①神社仏寺諸司要劇田畠
➡興福寺以外の寺社や諸司(官庁のこと)が、官物を取る権利を持っている土地のこと。
また要劇(官人の給金のこと)です。
②公田畠
➡国が官物を取ることが出来る権利だけを持つ土地のこと。雑役だけ興福寺が取れる田んぼのこと
つまり、国と領主両属の土地で、不輸租田(税を納めない田んぼ)になる前段階ともいえます。しかし、みんながみんな、雑役免の荘から、不輸租田になるとは限らない事は注意が必要です。
またこの時、寄人と呼ばれる人が出てきました。彼らは、国の土地を住みながら、寺社や公家に雑役を納める人のことを言います。
場合によっては人を支配して(寄人)、その後はその人々が住む土地も飲み込んで荘園にすることもありました。
不入の権の出現
この様な状況で国司たちは、公験(土地の権利証)のない私領や荘園を取り上げる、公領(国の土地)に取り込んで公領を確保するという方法を行いました。
それに対し、国司を入れない様にしようと領主たちは考えます。この国司を入れない様にする権利のことを不入の権といいます。この不入の権を手に入れるまでの過程を観世音寺を例に見ていきましょう
【観世音寺】
観世音寺は東大寺の末寺(東大寺の支配下にある寺といこと)であり、多くの封戸を持ったいた
しかし、封戸はまとまって存在しないし、その都度国司が封戸を決める浮免というものもあり、収入が不安定
⇓
観世音寺のある九州の中枢機関大宰府に働きかけ、分散している土地を互いに交換し(相博という)し、封戸を固定化して一カ所に集めた。(円田化という)
加えて、大宰府に働きかけて、四至牓示という四方に標識を置いてその区間に国司を入れるのを禁止した。
この様に、九州なら大宰府、そのほかの場所なら、民部省や太政官の符(上位の役所から下位の役所に渡す命令書)が出す民部省符を受け取って不入の権を手に入れました。
国免荘と寛徳の荘園整理令
この時、国司たちも独自に国符を出して、不入の権を認める事がありました。この国符によって不入の権を持った荘園のことを国免荘といいました。また、国司が立証することもあったのです。
それには以下の理由があります。
【国司の荘園の出現の理由】
①国司が封戸などの給付が出来ず代替として立証を見てみる
②国司は任期が存在しており、期限が迫ると荘園をつくることを認めだし、領主などから礼物をとったり、自らその荘のポストを手にすることもあった。
また、自分やその腹心に寄進させることもあった。
自分の荘園をつくった結果、自分の荘園にも不入の権を適用としたいと考えるわけです。その結果登場したのが国免荘というわけです。それに対してもちろん、政府も何もしないわけではありません。
寛徳の荘園整理令
寛徳の荘園整理令実は、そこまで有名ではありません。それは、あまりうまくいかなかったからです。
しかしながら、次に出てくる延久の荘園整理令が説明できないので、内容を説明すると
【寛徳の荘園整理令の内容】
前任の国司の任期中以後にたてた荘園はすべて停止し、これに反した国司は解任され、二度と国司になれない。
その後も荘園整理令が出されていることから、効果は微妙だったとされています。
その理由としては、恐らく後任の国司が荘園の報告を行ったと思われますが、その前任の国氏が公卿(国氏を任命する権利を持つ上級貴族)たちと関わっていて、その荘園を停止したら、公卿に目を付けられますよね。
その様な事が起これば、国司は出世できなくなります。そのため、この条文は徹底されなくて失敗に終わったと思われます。
延久の荘園整理令
その次に大規模な荘園整理令は、延久の荘園整理令(1069年)でした。この荘園整理令が出された背景ですが、藤原氏に対抗して天皇家の勢力を盛り返そうとしたというのがあります。この時代は藤原氏の時代、つまり摂関政治の時代でした。この摂関政治ゆえに天皇の力は弱まっていました。しかし、その摂関政治も終わりが来るのです。それが、この荘園整理令を出した後三条天皇でした。
藤原氏は、自分の娘を天皇の妃にすることで権力を握ったよ。どうしたかというと、藤原氏の娘を天皇に嫁がせて、息子が生まれると母親の実家でその子どもは育てられる。それによって、藤原氏がその息子(東宮)の後見人になったのだ。それから、天皇が子どもで即位した場合、藤原氏は摂政になり、天皇が成人すると関白になったよ。これを摂関政治といい。母方の親戚のことを外戚というよ。
しかし、この方法ではデメリットがあるよ。それは、藤原氏に娘が生まれなかった場合、外戚として政治を運営できなくなるという事だよ。そして、藤原氏を外戚に持たない天皇が誕生したのだ、それが後三条天皇だよ。
それでは内容についてですが、以下にまとめました。
①寛徳二年以降の新立荘園を禁止
②それ以前(寛徳二年以前)に公験がなかったり、あいまいなものであれば容赦なく停止
③中央に記録荘園券契所をつくり各荘園領主からそこに公験を出させ。厳密検査した。
⇒天皇が推進したこともあり効果大
この様になっています。
しかしながら、天皇は荘園を否定する事が目的ではないです。勿論天皇の力を強める部分もありました。国々でばらついていた桝を統一したということもありました。(この桝を延久の宣旨桝という)また、取り上げた荘園は、公領(国の土地)に入れるだけでなく、後三条天皇の勅旨田として発展させました。
また延久の荘園整理令後では以下で変化しました。
①浮免という部分的荘園
②荘園に住み着いた住民が公領に出作(自分たちが住んでいる場所から離れて耕作しにいく事)しているため領主もその公領が自分の荘園だと主張し官物を納めないで争っている土地
③公験のない荘園
⇒①、②、③これら三つが荘園整理令によって減少して、公領と荘園が分離した
このポイントをおさえると、延久の荘園整理令がどのように影響をあたえたかわかると思います。
荘園の歴史(寄進地系荘園~公領の変質まで)
ここからは、荘園の代表とも言える寄進地系荘園を見ていきましょう。またそれにともなって変貌した公領について触れていこうと思います。
その前に寄進地系荘園誕生前の知識を付けましょう。
寄進誕生前夜①(開発領主と武士の出現)
延久の荘園整理令が出される前、京都で大火が起こりました(1016年)。その時、藤原道長の邸宅が燃えてしまいます。しかし、焼失直後から再建工事が行われ、豪勢な邸宅が出来たのは、なんとその二年後でした。しかも、道長はお金を出していません。
なぜこの様な事が起きたのでしょうか?
それは、道長に国司の任命権があったからです。新旧の国司がもう一度または、引き続きなりたいがため(国司は任期がある)、みんな一生懸命私財を使って道長邸の再建に取り組んだわけです。
その様な国司たちの中でも一際目立つ人物がいました。それが、源頼光でした。
彼は武士的なその土地に住み着いた新しい形の受領でした。(中央派遣の国司が任国を拠点にすることは難しかった)
受領について説明するよ。四等官制は、当時中央も地方の役所も幹部職員がいて、彼らは四つの位が与えられたんだ。その四つを上から順に書くよ。
①長官(かみ)・・・業務を統括する人
②次官(すけ)・・・補佐役
③判官(じょう)・・・役所内の不正の調査と文書の審査をする人
④主典(さかん)・・・文書の作成
と四つあるよ、官司によって漢字が異なるんだ。でも音は一緒だよ。気になる人は調べてみよう!
受領だけど、この最高等級の長官のことを言うよ。ちなみに国司の最高官でも任命された場所に行かない人もいるんだ。その人達は受領とは言わないよ。きちんと国に来て職務を行う最高官のことを受領というんだ。
先程、国に行かない国司もいたと書いたけど彼らはどんな働き方をしたのかな?
少し、見ていこう!
まず、上級貴族が国司を任命するよ。すると普通は任命された国に行かなければならないのだけれど、行かない場合もあるんだ。そうなると代わりに目代という自分の一族の人を派遣したんだ、そして地元に住む有力者を補佐官として迎えたんだ。その有力者のことを在庁官人というよ。この国司が任国に行かないとを遥任というよ。(在庁官人は国司が権力を握り始めてから存在していた)
また、彼の様な受領たちは任国で「館の者共」などと呼ばれ、専属の家来たちの集団をつくっており、荘園を集めました。その結果、他の領主たちと争う事があれば、家来たちを動員しました。
加えて、この頃になると、押領使(反乱の鎮圧などを行う人で、国司や郡司の中から、強い人が選ばれた)などという職を兼ねて、武力集団が作られることとなったのです。その構成員の多くは在庁官人と呼ばれる人でした。
受領の中でも武力集団を作って実力を付けたい人はその任国にいる間に一族を国内に住まわせることもありました。例えば、先述した源頼光がその代表として挙げられます。
頼光は美濃守(かみ つまり長官)になってから、自分の子どもを住まわせ土着して美濃源氏といして栄えました。受領級が土着して棟梁となる場合は、在庁官人や郡司・郷司などを次第に武士団に取り入れ始めることになりました。
棟梁は武士集団の統率者のことを言うよ。基本的には、みんがついてくるような高貴な家柄の人がなったよ。その高貴な家柄とは、源平藤橘出身者の事だよ。
源平藤橘とは何のことかな?
源は源氏の事だよ。源氏を名乗った人たちは元皇族の人たちだったよ。また平は平氏のことでこちらも元皇族の人たちだったんだ。その次の藤は藤原氏の事で、歴史の教科書にも出てくる中臣鎌足の子孫たちのことだね。また、藤原道長もこの一族の人だよね。最後の橘も元皇族の出身者だったよ。
この様に見るとどの家もすごい家柄の出身者がなったことがわかるね。
彼らは、時間をかけて「兵の家」「侍」などと呼ばれ武力を職業とする集団となっていきました。国司の側でも武士化した人々の編成に力を入れて都の警備の番役(交代で行った)をやってもらい、その代償に皇宮警備の武力官職を受けられるように助力するという事をしました。
武力を持つことのメリットを見てみましょう!
【武力を持つことのメリット】
それだけが目的ではなく、国から一定の地位を貰え、土地や人々の支配力を高め、大規模な地主となる手段。
また、多くの場合、地方の役人や開発領主と呼ばれる人たちが地方棟梁級の有力武士の従者でした。
寄進誕生前夜②(開発領主のなりかた)
まず、開発領主のなり方ですが、まず藤原氏の様な中央貴族は農民の零細な開墾した田んぼを次々に買い集めることで開発領主になりました。
また、開発を自分自身で行うというやり方もありました。例えば、秦為辰は郡司の地位を利用して人を徴発する許可を国衙からもらって用水路の開設から始めて、まとまった水田を開拓しました。つまり開発請負人ということです。
これを為辰の私領にする代わりに税を国衙に納める責任を負いました。そして代わりに、地主職と公文職と呼ぶ権利を手に入れました。
・地主職・・加持子を取る権利のこと
・加地子・・その土地を耕す人からとる税
・公文職・・その土地の役人になる権利のこと
また中央貴族外の開発領主としては、源頼光の子孫光国がいます。光国は自分の腹心を郷司に任命して勢力の拡大を行いました。
【郷司】
郷は、郡の下に置かれたもので、郡の下について働く役人を郷司といった。
郷司も私有化され、親族に受け継がれた。
その郷が別の荘(東大寺の荘園)に侵入して境界となる柱を引き抜いて荘を取り込みました。その荘には、武力を持つ人物がいて、かれはいつも年貢納入しないなどの行動をしていましたが、外部からの侵入者に対しては立ち向かうまさに武士でした。
そのようないざこざが起こったため、光国は中央の貴族に寄進するとい裏技を使いました。
次の部分で詳しく寄進いついて扱っていきましょう!
寄進地系荘園①(鹿子木の荘)
寄進について考えるために最初に、鹿子木の荘についてみましょう。鹿子木の荘は教科書にも載っている有名な寄進地系荘園なので知っている方もいると思いますが、ここでしっかり確認してみましょう。
11世紀:沙弥寿妙がこの鹿子木の荘を開発した
⇓
1029年:公験を手に入れて領主としての立場を国司に承認される
⇓
孫である高方の代に国司の圧力が高まる
⇓
1086年:高方は貴族の藤原実政に寄進し、高方は実政を領家と仰ぎ一定量の年貢を納入の代わりに、預所職になることで在地支配を守ろうと考えた。
高方は失脚したが、領家は藤原公実、経実を経てその子ども願西(藤原隆通)へと受け継がれた。
⇓
これが、鹿子木の荘の寄進の流れですね。この時点では寄進というものが何なのかわかりづらいと思います。もう一例見ていきましょう。
寄進地系荘園②(備後国大田荘)
今度は、備後大田荘を見ていきましょう!
郷司橘氏の大田郷・桑原郷(これら二つは公領)
この場合、橘氏は私領主権しかもっていない土地なので公領また、この私領権しかもってないため、国に没収される可能性もあった
⇓ なので
平清盛の息子平重衡に寄進される(領家)
⇓
後白河法皇に寄進(本家)
⇓
橘氏がこの荘の下司となった
⇓
ところが平氏に負けると下司の職を没収された
⇓
高野山に寄進され、高野山は橘氏に下司としての権益を書きだす様に指示
ここで、その権益内容をまとめてみました。
<権益内容>
①郷すべての田畑に対する加徴米その他の徴収加徴米・・・基本年貢にさらに上乗せで払わせた税
②郷すべての在家に対する在家役
在家役・・・桑やからむしその他の屋敷で取られた栽培植物が対象の税
③特定地域の土地や人々に対する完全支配権
⇒年貢も雑役も完全に免除された橘氏の土地
④役人(警察権を持つ人などの行政担当者)の人事決定
この様に寄進することによって、開発領主の出来ることが大きな権利力によって保証されたわけです。
この私領が荘園になりあがる場合は以下の特徴があります。
「私領」寄進を骨組みとする場合では、周辺の公領を取り込んだ。
また寄進する側とそれを受ける中央の貴族存在が不可欠
結局「寄進」とは
ここまで読んでも寄進って何と思うかもしれません、少しまとめましょう!
開発領主は不入の権(国司が入ってこない権利)または、不輸の権(税を納めなくていい権利)がほしいけれど、国司に税を納めなければならない
⇓
寄進して、本家・領家に守ってもらう代わりに、国司に納めていた税をあげる
⇓
領主は「私領主」を寄進したのだから、形式上私領主権はなくなる。
寄進された側は、居ながらにして税が手に入るから、開発領主が立場上悪くなることはない。そこで、本家や領家は開発領主を荘官に任命する
【荘官とは?】
荘官とは、その荘園の事実上の支配権を持っている人のことで、下司を統括する人を預所といった。預所は、寄進された側の人の家臣がしっかり、下司が税を納めているかを監視した。
【不輸の権と不入の権の違い】
不輸の権は、税を納めなくていい権利のことであった。ところが荘園が増加して、国の財政危機が起こったことによって国司たちは荘園を何かにつけて暴力を行使して税を納めさせ始めた。
そこで、すでに不輸の権を持っている荘園でも国司が入ってこないような権利が必要になった。
それが不入の権だった。
【参考】安田元久編『荘園(日本史小百科)』(近藤出版社、一九八五)
この様に、荘園の寄進というのは、両方にメリットがあったわけです。
院政時代の荘園
鳥羽上皇の政権で、鳥羽上皇自身が院庁下文を使って荘園を立荘はじめました。
後白河上皇の時代も同様に院庁下文を使って、立荘しました。
後白河上皇は荘園整理令を出したものの、これによって危機感を持った人が上皇に寄進しはじめ、上皇の土地も増加しました。この院政期が本格的な荘園設立時期です。
【院政の説明を少し】
院政は、簡単に書くと天皇の地位を息子などに譲った後でも、引き続き上皇(太上天皇)として引き続き政務をとる事をいう。
【院政の例(最初の院政白河上皇を例に)】
白河天皇は息子の堀河天皇に天皇を譲る
⇓
白河天皇は上皇となり息子が天皇になった後も、引き続き院庁で政権を握った。
院庁・・・上皇が政務をとる場所でその職員には院司などがいた。
【命令の出し方二通り】
①院宣・・・院庁は院司が院(上皇のこと)の命令を承ってだす物(効果は一時的)
②院庁下文・・・院が出す中で最も権威のあるものであり、下文は発給者と受給
者との関係性が端的に表されており、書き方が縛られないの
で、書きやすく良く使われた(文書の書き方は公式令で
厳しく決められていたため)。この下文の多くが土地関係で出さ
れており、訴訟の判決、課役免除その他の特許状として使われ
た。永続的な効力を持っている。
また税に関しても変化がも変化が起こりました。それが、畑です。畑はこの時代になって初めて徴税対象にされました・
これは、荘園や公領の支配を強化する目的があったようです。畑が税の対象として取られるようになると畠地子(畠年貢)として取られ、加えて在家役(桑やからむしその他の屋敷で取られた栽培植物が対象の税)が含まれるようになりました。
荘園の歴史(公領の変化)~(家の出現)
ここからは、荘園が増加したことによって収入が減った国司はどうしたのかについて考えましょう
公領の変化
この時代には、公領も変化しました。
つまり、「国ー郡ー郷」という形から変わった単位になっていくわけです。そしてその変わった単位は名称もそれぞれ違っていました。中でも「保」が特に多く存在しました。まず保というのは、郷と同じレベルですね。
保とは何か?という話ですが、保は「別名」の一種で「別名」は「名」の名を冠してはますが、耕された土地だけではなく、まだ耕されていない土地・山野・民家を含んだ地元有力者の勢力圏にしたものです。
つまり、保もそれの一つであると考えればいいです。
そして、これは国衙から独自の納税の単位が認定されたものです。
どうして独自の納税システムを採用したのか?という話ですが、
公領を前述したように、寄進されてしまったら国司が得られる税はないわけです。しかし、領主の立場を認めてしまえば、領主は寄進しなくて済みますから国司に税が行くわけです。この様な方法を取ることで国の財政を維持しようとしました。
荘園がこれだけ力を持っているのだから、公領は少ないのではないかと思うかもしれませんが、信濃の国(現長野)では土地の約50%、また常陸(現茨城県)や石見(現島根県)も土地の50%程度の公領が存在したことがわかっているので、公領も相当数あったことがわかります。
知行国の出現
知行国という言葉聞いた事ある方がいるかもしれますせんね。知行国とは何か?
これの発端となったのは、院分国制と言われるものでした。院分国制は、院(上皇)・女院・皇后・中宮などに国が与えられて、その国の国守(国司)を自分の寵臣を推薦することが出来る権利を持ち、その公領から出てくる年貢を自由に使うことが出来る制度です。
後に上級貴族にも適応されて拡大し、知行国主は公領を事実上支配し、公領=荘園となりました。
つまり、知行国というのは、国司(わかりやすくいうと県知事)を任命する権利を持ち、その国から中央に向かう年貢は自由に出来るというやり方の事です。
天皇領について
院(天皇)も荘園をつくりました。これらの土地の中には後に八条院領、長講堂領と呼ばれ後の天皇家の財源となりました。
それではどのように作られたかというと、新しく作られた荘園を公家や寺社(領家)からその荘の本家になることによって大量に増加しました。
また一国平均役などの税の免除が強い荘園でした。
一国平均役・・・公領や荘園に関わらず、一律に掛けれられる税
「イエ」の始まり
そもそも、寄進とは自分のものつまり家産を確保するための寄進という事です。11~12世紀なると男子のみを通して土地が相続されるようになりました。そして、嫡男(跡継ぎ)以外に息子が存在した場合は、その父から受け継いだ土地を分割し、それを相続しました。
そしてその場所に居館を作って自分自身も開発をして、本領としてその地名を家名としました。そして嫡子は、それら兄弟たち、嫡流以外の人々つまり「イエ」を統率して惣領と呼ばれました。
これは、地方武家の内容ですが、中央貴族や天皇家でもその様な傾向がありました。
【例】藤原家と五摂家
近衛家
↗
近衛基実
↗ ↘
藤原忠通 鷹司家
↘
九条兼実 → 九条家
↓ ↘
二条家 一条家
という様に分岐していきます。しかし、嫡流と言われる一族を中心に構成されていましたが、後々家ごとに独立していきました。
荘園公領と職の体系
荘園を統括している人々に職が与えられました。またこの職というのは上から下に任命されました。これはどのようにして成立したかを見ていきましょう!
荘園と公領が乱立する所謂、荘園公領制が確立
⇓
実際荘園を支配する在地領主(開発領主)
⇓
下司職や公文職などに変化する。同時にそれらの上位に位置する人々も本家職、領家職、預所職などと全て職がついて表現される。
【理由(どうして職がつくのか)】
そもそも職というのは官庁のこと。
公領が荘園へと変化するには、院庁下文など国で最も力を持っている文書によって認められなければならない。上級貴族の持っていた公領を支配する権利が分かれて、荘園領主権となった。
つまり、職の名を与えられているのは、土地を支配する公的機関だから。
もっと言うと、中央官庁の様に上から下に任命されていて例を挙げると
【例】
天皇
⇓任命
中央貴族(本家職)
⇓任命
下級貴族(領家職)
⇓任命
預所職
⇓任命
下司職などの下級荘官
この様に上をたどると、中央の官職の様に天皇に行き着く。これを職の体系と呼ぶ。
この様に職の体系という荘園の支配の仕組みが出来上がりますが、難しい内容なので読み飛ばして頂いたでも構いません。
荘園の歴史(平安後期~鎌倉時代の荘園)
ここでは、地頭が出現する鎌倉時代の荘園について考えてみましょう。
低身分の武士と武士政権
この時代の武士の身分は低く、貴族はこの武士をボディーガードとして雇い働かせていました。そもそも、侍という言葉は「さぶらう」という身分の高い人に仕えるという意味からきています。
どのように仕えたかという話ですが、例えば、滝口の武士がそれに当たります。滝口の武士は、宮中を警備する人たちの事です。他に北面の武士(上皇の身の身の周りを警部する)などがあります。この様に中央で警備として過ごす面と先述した様に開発領主としての面と二つのめんがありました。
この様な時代の中で、武士政権が樹立されます。平氏政権です。これによって、虐げられていた武士たちは地位が上がることを期待しました。しかし、平氏の人々も以前の中央貴族と同じ様に振る舞いました。
これに不満を募らせた人々は日に日に増加し、源頼朝が兵を挙げると全国から平氏政権に不満を募らせた人々が集まりました。結果、平氏政権は打倒され、源頼朝の時代になるわけです。
頼朝政権
武士の不満を受け止めて、彼等の力を引き受ける事が頼朝政権の問題でした。つまり、荘官(武士)に優しい政治をするということです。
頼朝は平氏を打ち破って武力で制圧した東国の支配権を後白河法皇と駆け引きを行って、手に入れました。その結果出されたのが以下の宣旨(天皇の命令書)でした。
【寿永二年(1183年)10月の宣旨】
≪内容≫
東海道・東山道に所属する公領・荘園で年貢が納入されないという事が起こらないように現地の武士に命じた。それに従わない人は頼朝が処断する。
≪この宣旨の意味≫
①朝廷・荘園領主(本家・領家など)に対して年貢の納入を保障
②東海道・東山道に限って公領の郡・郷・保司や荘官(武士)の指揮権つまり武力の
確保
⇒頼朝が処断するということは、武士を操って倒すこともあるという事
③国司や本所には不利
⇒所定の年貢さえ領主に納めれば、その他は武士の自由
④荘園領主権を踏みにじることを許さない
東海道や東山道とは何か?という話だけど、昔は五畿七道という区分で日本が分かれていたんだ。
五畿というのは、都に近い五つの国、大和国、摂津国、和泉国、河内国、山背国(山城国)を言うんだ。その他の国を七つの道で分けたんだ。これが七道なんだよね。七道は、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道のことだよ。その中の二つの地域、東海道、東山道を頼朝は掌握したんだよ。
というように武士に優しい決まり事を発布し、加えて平氏が収めていた土地をそのまま頼朝が所有し、知行国を九か国も所有してゆるぎない経済基盤を手に入れました。
地頭・守護の設置
まずは、守護について解説していきましょう。守護の権限は以下の通りです。
【守護の権限】
①謀反人の逮捕
②殺害人の逮捕
③国司に対し大田文(納税される土地が知るされている台帳)の様な大切な文書の提出を命じる権利
⇒経済的・政治的な部分に介入できる
大田文には、公田という田んぼが記載されている台帳の事なんだ。この公田というのは、公式に年貢として納めましょうと決まった土地の事だよ。
それ以外の土地も存在したことも忘れずにね。
この様に国司の上位役職の様な権限を持つのが守護でした。
それでは、地頭について考えてみましょう!
【地頭について】
≪役割≫
平氏が収めていた所領や義経に関係する所領に設置された役職で下司の役割を継承した。
承久の乱後に全国の荘園・公領に設置。
≪狙い≫
土地の面積確定、百姓が逃亡したり絶えりした場合には、その土地を割り振る権利が狙いだった
⇒これの意味は、全荘の下地(収益が見込める土地)領掌権を全面的に地頭が握ると荘園領主(本家や領家など)は検田権さえ行使できなくなる
実際はそこまでの権利は与えられなかったが、地頭が強い力を持ったのは確か
この様な支配の仕組みが確立されました。また、領家と地頭が同時に並列して支配する場合もあり、二重に支配する事もあります。
それによって、訴訟が行われるなどの混乱を招くこともありました。
承久の乱後の地頭
承久の乱後、鎌倉幕府の力はより強まりました。というのも、後鳥羽上皇が負けたことによって後鳥羽上皇方のについた西国の武士たちは鎌倉幕府の支配下に入りまた、後鳥羽上皇の所領は没収になったからです。
これによって、当然の鎌倉幕府の役職の地位も高まりました。守護の権限は増え野盗を捕えるなどの権限が加わりました。
また後鳥羽上皇の土地を利用して、地頭という職が褒美として与えられる様になり、この戦い以後に地頭になった人を新補地頭といいます。新補地頭には新補率法と呼ばれる決まりごとに基づいて、荘園の税の支払い用の田んぼ11町(1町約109m四方なので、11町で約1118mとなる)につき1町の免田(税を納めないでいい田んぼ)が与えられました。
ちなみに承久の乱以前から地頭だった人の事を本補地頭と呼びます。
さて、この二つの地頭に違いはあるのでしょうか?
【本補地頭・新補地頭の違い】
①本補地頭
(1)年貢の対象にならない田んぼなどを所有して、下司の権限を受け継いだ
(2)警察権を持っている
②新補地頭
(1)年貢の対象にならない田んぼを所有
(2)荘園内の山や野原、川、海を領家と半分こにできた
⇒どっちが上か決められないが、地頭が力を持っていたのは確か
また、地頭は御成敗式目によって地頭の身分が保証されました。
御成敗式目(貞永式目とも言う)とは、貞永元年(1232年)執権であった北条泰時が出した法律だよ。ここでポイントなのが、武家に対する法律だということなんだ。武家以外の人は対象にならないということだね。この様な法律を武家法というよ。
この御成敗式目は形式上だけど、江戸時代まで存在したんだ。
荘園と村落
ここで村について考えてみましょう!
村すなわち、村落とは何なのか?原形としては、名主とそれに従う複数の在家(住居や園地や建物が建てられ土地を含んだもの事)が地域的にまとまって村としての性格を持つようになりました。
在家にいる農民の成長と共に村落共同体は農民の「家」が成立するにつれ「村」としての機能が強まったことから発生しました。
成長した地頭
有力な御家人は、一人でいくつもの地頭を兼ねる人もいました。一人で様々な場所を治めるのは難しいので、一族出身の代理人(代官)を派遣するのが普通でした。けれども、中には関東地方を本拠地にしていた人でも、西国(中国・四国・九州地方)の地頭に任命されえると拠点も西国にする人々が出てきました。
彼らは、後々大名になることもあったのです。
また時代が経つにつれ、複数の場所の地頭の職を任命された人でもどこか一つの場所を拠点に定住するのが普通になりました。広い地域の場合は一族を荘園内の各地に住まわせ、田を開発し、直営地をもって農民との結びつきを強め始めました。
加えて、百姓に対して地頭が罪を追及できる権利を持っていました。地頭に逆らうと百姓は追放処分を受ける事があるなど強い権限をもっていました。
荘園領主と地頭の違い
ここで、荘園領主と地頭の土地の治め方の違いについて考えましょう。
荘園領主(本家・領家など)は中央に住みながらにして、そこへ送りこまれた年貢を手に入れることを目的にしました。下地進止権(預所職などの役職者の任命権、また領主の権利には年貢収集権、検断権があった)などの諸権利や幕府側と交渉しながらその立場を確保していきました。また、荘園の成立からわかるように、荘園は貴族や大寺社から作られたので、年貢を集める力は地頭よりもありました。
一方で、この領主に対抗しながら、検断権(百姓に対して地頭が罪を追及することができる権利)を使って民を支配しました。
時にはこの二つの勢力が対立し、争いが発生することもありました。その時の主な解決方法を次の項目で見てみましょう。
下地中分と地頭請
一つは、地頭と荘園領主が折半して、支配領域をつくる下地中分があります。
またもう一つに地頭請というのがあります。地頭請とは、地頭と領主との間で決められた年貢額を領主に納める代わりに、現地の土地や人民の支配する権利をすべて地頭にゆだねることです。しかし、時間が経つと荘園領主に年貢が支払われなくなることもありました。この様な事が起こることによって、荘園は後々解体の道を歩むこととなりました。
元寇と貨幣社会
鎌倉時代の御家人はある理由で、困窮することになりました。それによって地頭支配にひびが入ることになったのです。一つは、貨幣の流通でした。この時代に流通したのは宋銭でした。
宋銭は、平清盛による日宋貿易によって日本にもたらされました。貨幣の良い所は、米などと違って腐らなく持ち運びも簡単でした。加えて、まだ米の量の計り方について全国ではまだ統一されていなかったので、場所によって量がまちまちでした。だから、簡単に数えられる銭というには、重宝されたわけです。
これによって銭が全国で流通し、年貢となっていた米やその他の品々は銭にかえてから、税として納める代銭納が行われるようになりました。
ここから、なぜ御家人たちが困窮したかの話に入ります。代銭納は物品の価値で変動しますよね。例えば、米が全国的に少なければ米は高く買い取られ、多ければ安く買い取られることになるわけです。つまり、場合によって収入が左右された不安定な生活になる可能性があると言う事ですね。
加えて、御家人たちに影響を与えたのが元寇でした。鎌倉幕府はこの未曽有の事態に対して、自分たちの支配下にない人々に対しても協力を仰ぎ、活躍したならば恩賞も与えると言い始めました。
結果、元寇という戦いが自体がそもそも防衛戦であって、新たな土地を支配するわけではないので、与えられる土地が増えるわかけでもありません。元寇の戦場は九州北部でした。この九州北部へ行くのも自費だったわけで、これでは御家人に打撃ばかり不満がたまっていくわけです。
そうなると地頭たちはどうするのか?
土倉と呼ばれる高利貸しにお金を貸してもらうようになったわけです。彼らにお金を返せなくなると担保にしていた土地を奪われるわけです。
この様な貧しい御家人が増加すると鎌倉幕府は軍事に人々を動員できません。なので、幕府は徳政令を出しました。
徳政令の中でも有名な徳政令は、永仁の徳政令(1297年)だよ。その対象になったのは御家人なんだ。内容は所領の質入れ禁止と売却の禁止だよ。
また条件付きで売却した所領の無償で取り戻すことを認めたんだ。
当時の執権は北条貞時だったよ。しっかり覚えておこう!
荘園の歴史(悪党の登場~荘園の終わり)
ここでは、前回までは鎌倉時代の話でしたが、建武政権下の話をとばして、南北朝時代のことから解説をはじめて、荘園の終わりまでを見ていきたいと思います。
悪党の登場と荘民
悪党と呼ばれる人々が荘園の制度を崩壊へと導いたと言われています。悪党とは何者なのでしょうか?
悪党とは、幕府や荘園の領主に反抗行動をとる人々の事を言いました。これだけではわかりににくいと思いますので、例を挙げたいと思います。
【例:黒田荘の悪党】
下司の大江氏
⇓
大江氏は御家人の一族ではないのでこの荘園の領家である東大寺の支配をはねのけることは難しかった
⇓
よって大江氏の独自支配は難しく領家支配の荘民の対立も避けられない
大江氏は伸び悩む
⇓
大江氏は反社会的行動(掠奪行為など)
この様な行動に出る人々を悪党と呼んだ
ここから言えるのは悪党というのは、どうにもいかなかったときの最終手段として反社会的な行動を起こす人々の事と言えそうですね。
この様な行動をとる人々は増加しました。またほぼ同時期に惣百姓と呼ばれる人々も出現しました。
これもわかりづらいので、例を挙げて見てみましょう!
【例:矢野荘の悪党と惣百姓】
≪鎌倉時代末期≫
領家(藤原氏)と地頭の間で下地中分が行われる。
この下地中分された範囲を例名とよばれ、そのほかに南禅寺領の別名と呼ばれるがあり、この荘園はこの二つの地域から構成された。
⇓
領家の部分は東寺に寄進され、その後別名(国衙に土地の開発を許可される代わりに、税の納入を約束された土地)として開発領主寺田氏の拠点となった。
⇓
東寺の荘園支配に反発して、寺田氏とその仲間は南禅寺領を攻撃した
⇓
東寺は荘民を従えて寺田氏に対抗してこれを圧倒【南北朝時代へ】
⇓
【南北朝時代】
大きな桝(年貢を取る桝)にして重税を課す荘官に不満を持つ荘民と東寺がバックについている荘官である祐尊が対立
⇓
荘民は全体の意思として祐尊を荘官として認めないとして誓いをたて、逃散(荘園の役人と会うのを拒否するなどの行為)
⇓
村落の共同体の惣と呼ばれる連合体が強くなっていることがわかる
南北朝の内乱と荘園制
鎌倉幕府がつぶれると、建武政権が樹立されましたがすぐに打倒され、室町幕府が樹立されました。室町幕府も、鎌倉幕府のやったことを継承する形をとりましたが、室町幕府に集まった武士たちは過激な行動を取るようになりました。
彼らは、不安定な情勢に乗じて、荘園の年貢を横領したり、荘務権(荘園の現地管理や支配をする権利)を奪い取っていました。これにより、~職の人々が管理するいわゆる職の体系が崩れさりました。
また、この頃荘園の地頭や下司(下級荘官)級の人々を国人と呼ぶようになりました。国人は力で権利がありなしに関わらす土地を支配し、自分たち一族、地侍(その地域に住み着いた武士)を配下に迎え大きな存在になりました。
当時、後醍醐天皇率いる南朝と足利尊氏を統率したいた北朝と争っていたよ。加えて、北朝の中でも内部抗争を起こしていて大変な状況だったんだ。
守護の変化
守護はこのような安定しない世の中で、大犯三か条以外にも使節遵行(土地の争いを治める権利)や苅田狼藉(稲を勝手に刈り取る者を実力行使で取り締まる権利)といった権利を追加で手に入れました。
また守護は国人と呼ばれる人々を部下として集めはじめたのです。そして、守護に反逆した人々の所領を取り上げて国人に与えはじめました。
加えて守護が幕府に送る税をその代行として荘園から取り始めました。守護はかなりの量の税をとる為、荘園の人々は守護から税を取られることを恐れ始めました。
よって、守護に一定の年貢量を治めさせる代わりに、一部の土地の領有を認める守護請が盛んになりました。
結果、守護の勢力はますます増加していくわけです。
また、半済令というものがあります。半済令というのは、荘園全体の年貢半分を守護が、もう半分を本所のものにするというものです。はじめは一年だけでしたが、その後期限がなくなりました。それによって、守護や国人といった階級の人々の侵略を認めることになりました。
加えてこの半済令は、守護が出すことが出来たのです。
武家領について
武家領は、守護・国人クラスの一円所領(守護・国人クラスの人々が完全に支配している土地)の事です。
これら所領はどこから出てきたのでしょうか?
それは鎌倉時代中期の下地中分で成立した地頭の土地でした。それが拡大したものでした。
南北朝時代になると、地頭がこの様な武家領を寄進し始めることになります。逆の場合も起こりました。なぜこのようなことが起こったのか?
次の事が起こったから、幕府と争って負けた寺社や貴族の所領が没収されて武家の土地になったもの、寺社所領などが半済令によって武家の所領になったもの、武家が実力で寺社の所領を奪いとったものこれらの原因でそのような状況になったのです。
請負代官制とは
請負代官制とは何か?請負代官とは、この代官の立場や出自はまちまちで、彼らは年貢を定額で請負、京都で領主側に納入しました。
この様なことをするにあたって、以下の事が出来る人がなりました。京都の幕府(室町幕府は京都が拠点)や守護たちに対しての政治的な交渉力があり、荘園領主がいる京都まで問題なく年貢を運べる人物が適任とされました。
また、これになれる人は、荘園領主に認めされなければなりません。そこで多額のお金をおさめるなどの必要があるので、自然とお金を持っている土倉などの金融関係の人がやる事が多くありました。
村落(室町時代)
畿内(京都周辺)では、名主加地子の収取権利の売買が盛んになりました。
それでは、名主加地子とは何なのでしょうか?
時は鎌倉時代にまでさかのぼります。鎌倉時代になると領主におさめる名主の年貢の額は、固定されます。要するに、年貢を納める指定の場所が決まっていたので、その他の場所は年貢の対象にならなかったわけです。
従って、小規模な耕地でも持っていればその土地の年貢を手に入れる事ができました。その土地を耕す農民(小百姓)から税を名主加地子といいました。
この名主加地子が支払えるというのは、名主がいなければ生活するのも難しかった小百姓がこの様な税を納めることが出来るということは、それだけ彼らの力が安定してきたことがわかります。彼ら百姓の連合である惣村が出てくることになったわけです
金融業者(土倉・酒屋)
当時の金融業者には主に二つのものがありました。一つが、酒屋です。
酒屋は当時、京都や奈良には公家や寺社などからの年貢米が集中するために、この米を加工して酒を造って儲けていました。
彼らは荘園領主の公家や寺社(比叡山がその代表)との間で密接な結びつきを持っていて、彼らの懐が厳しくなると年貢を担保にして荘園領主達に融資をするようにこともしていました。
またもう一つの勢力に土倉がいました。土倉とは、倉庫業者のことです。彼らは。年貢や公家や寺社などの貴重品の保管をしていました。さらに、公家や寺社が銭を必要になると、秋に入ってくる予定の荘園年貢を担保にして土倉は彼らに融資するといったことをしました。
もし借金が払えない状態であれば、土倉がその荘園の代官となって手代を送り込み、守護や国人の力を使って支払わせました。
加えて天皇、幕府、公家や守護に対してだけでなく、京都やその周辺の村の民衆に対しても高利貸を行っていたのです。
土一揆と荘園の衰退
先程も見たように、土倉や酒屋の様な金融業者がかなり幅を利かせていたことがわかると思います。この様な状況に対して、反発する人々もいたわけです。それが土一揆です。
有名な土一揆には何があるのでしょうか?
正長の土一揆というのが一番最初の土一揆でした。なぜこの様な一揆が起こったのでしょう?一つは将軍の代替わりであったという事です。つまり、四代将軍足利義持が死去し、6代将軍足利義教が将軍になりました。(義持の息子である義量が五代目の将軍になったが、義持より先に死去した)
この将軍に代替わりになると代が替わったので、借金を帳消しにしてほしい(徳政令を出してほしい)と農民は酒屋や土倉に対して蜂起しました。結果、この蜂起の主要な場所では、徳政令がでたようです。
次に紹介する一揆は、嘉吉の徳政一揆です。これも先程同様に将軍の代替わりに起きた一揆です。今回は、6代将軍足義教が暗殺され、7代将軍足利義勝が将軍を継ぎました。
この徳政一揆はかなり規模が大きく、蜂起した農民が京都の町の要所を制圧して幕府に対して、徳政令を出すように迫りました。結果、幕府が正式に全国に向けて徳政令が出され、一揆によって始めて徳政令が出された事例です。
この様な一揆は実は荘園を衰退させる原因となりました。
まず土一揆や徳政一揆が起こった月は九月前後が圧倒的に多かったです。というのも、百姓がこの時期になると荘園に年貢を納入し、かつ負を債支払なければならない時期が重なっていたことになります。
荘園領主がこの時期に年貢が送られないとどの様な事が起こるか?
それは、荘園領主が金融業者から融資を受けなければならなくなります。そしてそのつけを百姓にまわすことになりました。
加えてそれまで、領主たちは守護の侵略を幕府に賄賂を支払う事で何とかしていたのですが、それも難しくなってしまいました。
つまり、土倉や酒屋が攻撃されると荘園領主による荘園経営はうまくいかなくなったという事です。
村の共同体の成立
前にも書いた様に、名主以外の小百姓が力を持ち始めその集団がつながり、惣荘や惣郷と呼ばれるものが生まれ始めました。
戦国時代になると郷の更に規模の大きい郡、更に大きいものだと惣国なんてものも出てきました。
彼ら惣郷が警察権を手に入れました。これを地下検断(自検断)といいます。
また、共同体を構成する人々の中には「おとな百姓」と「ひらの百姓」あるいは「小百姓」などとよばれる身分にわかかれていましたが、運営に関しては身分関係なくみんなで話し合って決めていました。
守護領国制
守護は時間と共にその権限を拡大させて、国人らを家臣として自分の任国全体にわたり大名となってきました。これが守護領国制と呼ばれるものです。
もう少し見ていきましょう!
室町時代にはいると、三管・四職をはじめ、山陰の山名、周防の大内などの有力守護は任国を固めてその地位を世襲するようになりました。この様になる将軍の力をもってしても守護の任国を替えることが難しくなりました。
まず管領というのは、簡単に書くと将軍の補佐官だよ。管領になれる家は決まっていて、細川家、斯波家、畠山家という三つの家からしか管領はだされなかったんだ。この三つの家のことを三管領というよ。
四職を説明する前に、侍所を説明するよ。侍所というのは、守護や地頭、御家人などを統括し、犯罪の処罰、戦が起これば、戦いの指揮までとったんだ。その役所の長官を所司というのだけれど、その所司になれる家が、四つあったんだ。
それが、赤松家、山名家、京極家、一色家の四家だったんだ。この四家の事を四職といったよ。
他にも室町期から守護領がますます国衙領(公領)を吸収したり、守護が独自に反銭を徴取する様になりました。
まず守護は反銭を大田文(税を納める用の田んぼが書かれている台帳)に基づいて一国平均銭という形で、毎年決まった額を領国から徴収するようになったのです。
一国の検地を自分たちで行っていないにしても、これは領国全体の土地支配に大きく踏み出したことになりました。
この様に守護がその国の支配を強め、荘園や公領に関係なくお金をとるシステムを確立していったわけです。
戦国大名の誕生
戦国大名となっていく層は、守護大名や国人領主層でした。彼らが急速に軍事力を強大にできたのは、村落の上層農民の多くを軍役に編成することができるようなったためです。
まず国人領主層とは一体何でしょうか?
国人領主層とは、地頭・下司・郷司級の人たちのことです。室町時代、国人領主層は守護大名の家臣となったり、周辺の国人領主と手を結んで国人一揆をつくったり、将軍の直属家臣(奉公衆)の様になったりしました。
ではその国人領主層の下にはどんな人々がついたのでしょうか?
村の小領主層という人たちが下につきました。
彼らは15世紀~16世紀に百姓身分の中で、加地子名主の権利を集積して地主・地侍化していった人達でした。
話は変わって軍事力はどのように集めていたのでしょうか?
武士団成立から南北朝動乱期までの在地領主層の軍事力というのは同族団的な集団(イエ)を一つの単位とするもので、だいたい数十人から200人程度でした。
15世紀~16世紀になると軍事力に変化が起こりました。
守護大名や国人領主層と主従の関係を結び、年貢の一部の免除される代わりに、合戦時には「寄子」クラスの軍役を行いました。これによって大動員が可能となり、彼らの軍事力は飛躍的に高まりました。
具体的には有力な武将である「寄親」に「寄子」として預けられた村の小領主層を加えて組織したものです。
この様にして大名が誕生していったわけです。
荘園制度の終わり
室町幕府的には荘園侵略を禁止していましたが、応仁の乱の様な混乱期に入ると、大胆な荘園侵略を行っていた細川勝元(管領で、応仁の乱では東軍を率いた)が幕府の中心人物であった様に、既に黙認されていました。
室町幕府の有力者までも荘園の侵略を行い秩序が乱れる中、戦国大名が荘園制度にとどめをさしました。
この戦国大名はなにをやったのでしょうか?
まず彼らは自分の権力が働かない場所に対する不輸不入権の否定しました。
それから大田文(年貢を収まる土地の台帳)の依存から自ら検地の実施を行い年貢をとる場所を改めて設定して、年貢の額の基準を統一しました。
そして先述した様に村の小領主層の軍役衆への編成し、自らの立場を「公儀」といい始めました。
荘園制段階において「公儀」とは朝廷や天皇を示す言葉で、室町期に移ると義満以降は室町幕府が「公儀」にあたりました。しかし、北条氏、今川氏、毛利氏などの戦国大名は、戦国大名権力自体を「公儀」とみずからをいうようになりました。これによって、荘園公領制は幕府などの権力を否定したため国家的な保障を失ったこになりました。
この様に戦国大名が独自支配を行って、荘園制度が弱まる中で完全に息の根を止めたのが豊臣秀吉の太閤検地でした。
太閤検地は、まず戦国大名独自で行っていた検地を全国にまで広げ、年貢となる桝(京桝)を指定し、荘や郷や保といった区分を統一してすべての土地は領主直属にするなどといった措置をとり完璧に荘園制度は終わったのです。
荘園に影響を与えた主な法令簡易年表
荘園に影響を与えた法令を簡単にまとめてみました。
法令名 | 元号 | 西暦 | 政権担当者 | 簡単な説明 |
---|---|---|---|---|
百万町歩開墾計画 | 養老七年 | 722年 | 長屋王 | 国司や郡司が推し進めた開墾計画。うまくいかなかった。 |
三世一身法 | 養老7年 | 723年 | 長屋王 | 新しく用水路を使って開墾した人は、本人、その子ども、孫(一説には、その子ども、孫、ひ孫)の三代の間所有してもいいという決まり。三代が三世のこと。 また、もとからある用水路を使って開墾または再開墾した場合は、その土地を開墾した人一代限りの所有を許した。これが一身。 |
墾田永年私財法 | 天平15年 | 743年 | 橘諸兄 | 持っている位で所有できる面積は決まっているが、国司の許可を得る、加えて許可後三年以内に開墾を終えることなどの条件でその決まった面積の土地をずっと所有できるという決まり。 |
加墾禁止令 | 天平勝宝元年 | 749年 | 道鏡 | 寺院や現地百姓の開墾以外を禁止した。 道鏡が失脚すると加墾禁止令は撤回され、その時に墾田永年私財法の制限も同時になくなり、一層貴族の土地所有が増加。 |
延喜の荘園整理令 | 延喜2年 | 902年 | 醍醐天皇 | 勅旨田禁止、百姓の土地や家の買取禁止、空間地の占有禁止が主な内容であり、効果はあまりなかったとされる。 |
延久の荘園整理令 | 延久元年 | 1069年 | 後三条天皇 | 寛徳二年以降の新立荘園を禁止。 またそれ以前(寛徳二年以前)に公験がなかったり、あいまいなものであれば容赦なく停止。 加えて、中央に記録荘園券契所をつくり各荘園領主からそこに公験を出させ。厳密検査した。 これは天皇が推進したこともあり効果大だった。 |
寿永二年の宣旨 | 寿永二年 | 1183年 | 源頼朝 | 頼朝による東海道・東山道に所属する公領・荘園の支配が認められた。 |
荘園の流れを簡単に
荘園というのは、簡単に書くと私有地の事ですね。最初に登場したのは奈良時代でした。
奈良時代の墾田永年私財法から始まって、平安時代ごろになると税を逃れるために班田を貰わなくていいように、老人を偽るといった行動に出る人がでてきましたね。
そうなると、国の経営が難しくなって有力な農民に税を納めさせる負名制が起こることになりました。更に、そこから、不入の権(税を納めないでいい権利)を手に入れるといったことを始めました。
また上級貴族に寄進というものが行われました。それによって国司からの納税を逃れました。
寄進される荘園が増加すると年貢の量が減少するので、国も考えなければなりません。そこで。国の土地(公領)の所有をその土地の有力者に認める代わりに税を納めてもらうと言ったことを始めて、荘園と公領が乱立することになりました。
鎌倉時代には、地頭が全国の公領や荘園に配置されることによって、地頭が荘園の経営のカギを握る存在になってきました。
室町時代になると不安定な世相を反映して、守護に絶大な権限が与えられるようになりました。
そして誕生した守護大名が、独自に検地を開始して荘園をその大名のものへと変化させ、豊臣秀吉によって、太閤検地が全国的に行って、重層的な土地支配が終焉へと向かい、荘園制度がなくなりました。
最後に
以上、荘園の成立から衰退までを取り上げてみました。
難しい部分は多くあると思います。というのも、支配関係が何層にもなって重なっているためだと思います。
ただ、少しづつ一つ一つの部分を理解することによって、つながりがわかり理解につながると感じます。荘園がわかれば日本史はもっと面白くなるはずです。
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