江戸時代前期から中期に活躍し、第5代将軍となった徳川綱吉という人物を、あなたも耳にしたことはありますよね。
第3代将軍徳川家光の4男として、1646年1月8日江戸城で生まれました。幼少期の名を「徳松」と言います。
彼の名を最も有名にしたのは「生類憐みの令」であることは間違いないでしょう。人間よりも犬を大切にした「バカ殿説」まで浮上していますが、実際のところはどうだったのでしょうか?
今回は、そんな「犬公方」徳川綱吉について解説していきたいと思います。
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徳川綱吉はどんな人?
徳川綱吉は、1646年(正保3年)1月8日に江戸城で生まれました。父は、3代将軍徳川家光、母は桂昌院です。綱吉の政治に大きな影響を与えたとされる母、桂昌院ですが、生まれは京都で八百屋の娘だったとされています。その時の名は「お玉」でした。
ここで1つマメ知識です。現在、当たり前のように使わrれている「玉の輿」という言葉ですが、由来は綱吉の母「お玉」からきています。八百屋の娘であったお玉は、あれよあれよという間に大奥に入り、家光の側近となり妻にまでなったのです。お玉は応仁の乱で荒れ果てていた「今宮神社」の再興に尽力を注いだことで知られています。「今宮神社」には今もお玉(桂昌院)のレリーフがあり「玉の輿神社」として人気を集めています。
綱吉の幼名は「徳松」と言い、後に「松平綱吉」に改名し「徳川綱吉」となりました。明暦3年(1657年)に「明暦の大火」で自分のお屋敷が焼失してしまったため、竹橋から神田に移り住みます。寛文元年(1661年)8月には、上野館林藩主となりました。
そして1687年(具体化されたのは1685年とも言われています)「天下の悪法」と評された「生類憐みの令」を出したのです。父である家光に「儒学」を厳しく叩き込まれた綱吉は、儒学に傾倒し、生類憐みの令へと繋がって行くのです。ご存知の通り、この法律は動物愛護に関する法令でした。内容は日を追うごとにエスカレートしていきます。こちらは後ほど解説しますね。
低身長(124cm)がコンプレックスだった綱吉は「能狂」と呼ばれるほどの「能オタク」だったとされています。良くも悪くも、1つの事をとことん突き詰める性格でした。
徳川綱吉は、身長が124㎝しかなかったと言われています。この説の元となっているのが、愛知県岡崎市、大樹寺にある徳川歴代将軍が亡くなった時の身長のサイズで作られている位牌なんです。江戸時代の男性平均身長は155㎝。綱吉は、平均身長より30㎝以上小さかったことが、とてもコンプレックスだったと言われています。
1709年2月19日(宝永6年1月10日)、死因には諸説ありますが「成人麻疹」により死去というのが一般的です。
生類憐みの令について
綱吉が「生類憐みの令」を出した背景には、母「桂昌院」の教えがありました。綱吉には、娘がいたものの、跡継ぎになる息子がいません。そこで桂昌院は綱吉に「あなたに息子ができないのは、前世で動物を殺してしまったからですよ。これから動物を大切にしなければなりません」と説くのです。これを鵜吞みにした綱吉は「生類憐みの令」を出すに至ったのです。生類憐みの令とは「動物愛護」を趣旨とする法令でした。
そこから綱吉は「犬公方」と呼ばれるようになりますよね。これは綱吉が「戌年生まれだった」為、動物の中でも犬を1番大切にしたからなんです。
元々は「生きているものを大切に!」という、ごく当たり前の素晴らしい法令でした。そこから20年の間に法令がどんどん厳しくなり、100回以上も発令されたんです。最後は「蚊」を殺してもNGとなってしまいます。釣りをすることもご法度でした。
この法令は、綱吉の死後1709年に廃案とされ、以後幕府の方向は修正されました。
能が大好きだった綱吉
綱吉は「犬公方」「お犬様」など、犬に対するイメージが強烈ですが、犬に匹敵するほど好きだったのが「能」です。先ほども触れたように、綱吉の性格は、1つのことに夢中になる「突き詰めタイプ」でした。能が好きなだけでしたら何ら問題はありませんが、彼は「能狂」と呼ばれていたほどです。狂っていたと言っても良いでしょう。綱吉の「能狂」が巻き起こした出来事をまとめてみます。
- 自分の舞いを、人々にひたすら見せていた
- 側近や大名たちに、能を舞うことを強要していた
- 能役者の追放や、流派を完全に無視した移籍を強要していた
- 能役者を士分(江戸時代の武士階級のひとつ。正規の武士身分を持つ者)に取り立てた
- 廃曲となったものを、急遽復活させるよう命令した
今で言う「パワハラ」に当たる行為を繰り返し、人々を無理矢理自分の世界に引きずり込んでいきました。
儒学精神を貫く
儒学を学んだキッカケは、父の家光の指示によるものでした。躾に厳しかった家光は、兄弟の序列や尊敬・敬いなどの気持ちを綱吉に身に付けさせたかったのです。それによって、次第に綱吉は儒学に心酔していきます。儒学の中でも、綱吉がのめり込んだのは「朱子学」でした。
徳川綱吉の年表
1646年(0歳) | 徳川家光と桂昌院の間に生まれる。幼名は「徳松」 |
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1651年(5歳) | 家光が死去。兄・家綱が4代将軍となる |
1653年(7歳) | 家綱の昇進により元服し「綱吉」となる |
1657年(11歳) | 明暦の大火で竹橋の屋敷が焼失する |
1661年(16歳) | 上野館林藩主として所領25万石の城持ち大名になる |
1680年(35歳) | 徳川第5代将軍となる。堀田正俊を大老とする |
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1684年(39歳) | 堀田正俊が、若年寄の稲葉正休にて刺殺される |
1684年(39歳) | 御用人の牧野成貞・柳沢吉保らを重用する |
1685年(39歳) | 生類憐みの令を発令 |
1690年(44歳) | 湯島聖堂を建立 |
1703年(57歳) | 赤穂浪士が高家吉良義央の屋敷に討ち入り(赤穂事件) |
1709年(64歳) | 麻疹により死去(2月19日) |
湯島聖堂
庶民を困らせ、横暴な発令を繰り返し、バカ殿説まで出回っている綱吉ですが、決してそれだけではないのです。この湯島聖堂は、綱吉が儒学を奨励するために造った「学問教育の聖地」であり「日本の学校教育発祥の地」という、凄い場所なんです!
元禄文化について
元禄文化は江戸時代に将軍綱吉によって、京や大阪で栄えた文化です。この元禄文化では、今も名高い人物たちが次々と登場しました。
松尾芭蕉 | 俳諧「奥の細道」「野ざらし紀行」「更科紀行」 |
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井原西鶴 | 浮世草子「好色一代男」「日本永大蔵」「世間胸算用」 |
近松門左衛門 | 浄瑠璃・歌舞伎「曾根崎心中」「冥途の飛脚」「心中天網島」 |
菱川師宣 | 浮世絵「見返り美人図」「歌舞伎図屛風」「浮世人物図巻」 |
市川團十郎 | 役者「遊女論」不破伴左衛門役「金平六条通」坂田金平役 |
綱吉の死因…本当のところは
最初に、綱吉の死因を「成人麻疹」としましたが、これには諸説あります。ここでは、綱吉の死因として有力なものを3つ紹介していきたいと思います。
お餅がのどに詰まったことによる窒息死説
綱吉は、死の直前に正月の残っていた餅を食べたとされています。その頃綱吉は、麻疹と併発していた急性気管支炎の発作が重なり、餅を喉に詰まらせて窒息死したという説もあります。
成人麻疹説
当時は、麻疹と言っても子供の病気ではなかったのです。今ではなかなか考えられませんよね。しかし、江戸時代は大人でも麻疹にかかりなくなることが多かったのです。綱吉も、麻疹で苦しみ、1度回復の兆しが見られ、お祝いに「笹湯」に入りましたが、その直後に亡くなったとされています。
女性にだらしなくて刺された説
身長に極度のコンプレックスを持っていた綱吉ですが、女性にはとても積極的だったようです。さすが将軍様…自分の娘にまで手を出したなんて言われています。そんな中、側室が産んだ子供を、自分の子と思い込み、次期将軍に指名してしまうのです!綱吉の妻、鷹司信子は、何度も綱吉を説得しようと試みますが、うまくいかず、最後は綱吉を刺して、自分の喉を一突きにし、自害しました。
近年綱吉に対する評価に変化が!
そんな「天下の悪法」を作ったとされ、ずっと評判の悪かった綱吉ですが、近年綱吉への世間の評価が大きく変わってきているのです。
それは、生類憐みの令の史料が、とても質の低いもので誇張されている部分が多かったことがわかったのです。そして、綱吉の政治の元「松尾芭蕉」「井原西鶴」「近松門左衛門」などの素晴らしい文化人を生み出したのも、綱吉の優れた経済政策があったからと言われ始めています。さらに、8代将軍徳川吉宗が行った「享保の改革」は綱吉の天和令を「武家諸法度」として採用しているのです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
それでは最後に徳川綱吉についておさらいしてみましょう。
・綱吉は元々、将軍になる予定はなかった。
・身長が124㎝しかなかったことが、コンプレックスだった。
・性格は「一点集中型」で、1つの事をとことん突き詰めるオタク気質であった。中でも「儒学」と「能」にのめり込んでいた。
・135回も発令を繰り返した「生類憐みの令」は「天下の悪法」と呼ばれていたが、近年はその評価が見直されている。
・綱吉の熱心な儒学への思い入れが元となり「松尾芭蕉」「井原西鶴」「近松門左衛門」などの文化人を生み出すことに成功した。
学校の授業で習った時には
とんでもない人が将軍になってしまったんだな…この時代の民衆たちは大変な苦労をしたんだな
と思っていましたが、決してそれだけではなかったようですね。綱吉は、悪く言えば「マザコン」ですが、とても母親思いの優しい一面があり、なにより勉強熱心で、数々の文化人を誕生させた生みの親的存在だったのです。もちろん、度が過ぎて民衆を困らせたことも事実ですが、実際に「生類憐みの令」によって処罰された事例は、たった69件だったことがわかりました。
このように、あれだけ悪評高かった綱吉ですが、見方を少し変えると「とても優秀であったが、うまくバランスがを取ることができなかった」のかもしれませんね。