今まで、蘇我馬子という名前を聞くことはあったのではないでしょうか?
でもよくわからないという方もいるかと思います。今回は、かなり詳しく蘇我馬子についてまとめました。殆どの部分を『日本書紀』を参考に書きました。
日本史をこれから勉強したいと思う方の一助になればと思います!
それでは見ていきましょう!
Contents
蘇我馬子とは?どんな人
ゆりかごから墓場まで解説していきます。
日本史を習う高校生御用達の本 全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集(改訂版)』(二〇一八、山川出版)を参考に、見ていきましょう。
生まれた年は、6世紀(500年代)に生まれたとされます。昔の人なので生まれた年はわかっていません。時代区分としては難しいのですが、古墳時代末期~飛鳥時代の人という感じですね。ここの部分は、年表にて解説します。
お父さんは蘇我稲目(いなめ)という人です。孫には、有名な蘇我入鹿がいます。この時点で重要人物の香りがしますよね!
上司には、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇がいて、この四代の下で働きました。
性格に関してですが、馬子がなくなるときの記事(『日本書紀』推古天皇三十四年五月二十日)には、軍事や戦略に強く、人の議論の内容に関して違いをはっきりさせる力があり、仏教を深く信仰したとあります。
彼の残したことは、仏教が来た時に反対したライバルの物部守屋を倒して仏教を推進しました。そして日本最古級の仏像である銅像釈迦如来坐像(飛鳥大仏)のある飛鳥寺を聖徳太子(厩戸皇子(王)とも言いますが、聖徳太子とこの記事では呼称します)などと一緒につくりました。
また、崇峻天皇を暗殺して推古天皇を即位させました。それから聖徳太子と一緒に政治を行い、現存しませんが『天皇記』と『国記』を編纂しました。
626年にその生涯を閉じました。そのご遺体は、奈良県の石舞台古墳におさめられているとされています。
【テストに出るかも?】
・父稲目から続く崇仏論争を物部守屋にかって終わらせた
・崇峻天皇を東漢直駒を使って暗殺して、推古天皇(初めての女性天皇)を即位させた
・蘇我入鹿は孫、蘇我蝦夷は息子
・お墓は石舞台古墳
【崇物論争について】
欽明天皇の時代に百済の聖明王から仏像と経典が送られた。(送られた年は『元興寺縁起』には538年、『日本書紀』には552年と書かれており、538年が有力とされている)ここで、物部尾輿は仏教を崇拝することに反対した。一方、蘇我稲目は仏教崇拝に賛成します。ここで争いが起こった。これを崇仏論争という。
蘇我馬子の年表
蘇我馬子の年表を作りました。その年表に加えてその出来事を深く見ていく事を目的としています。年表の部分には、簡易な内容を記しました。被っている部分もあるかと思いますがご了承ください。
今回の年表は宇治谷孟(著)『全訳ー現代文 日本書紀下巻』(創芸出版、一九八六)を用いて作成しました。本当は、自分で解釈することが大切だと思いますがすいません。他に小島憲之、直木孝次郎、西宮一民、蔵中進、毛利正守『日本書紀②(新編日本古典文学全集3)』(小学館、一九九六)も参考にしました。
また現在の場所もこの『日本書紀②(新編日本古典文学全集3)』を参考にしたのですが、20年以上前の本なので、古い地名のままかもしれません。気になる方は各自、調べていただければと思います。
またこの『日本書紀』は西暦表記ではありません。この時代は、天皇の在位年数で数えるのが一般的です。なので用語集の没年626年から逆算し西暦を出しました。『日本書紀』の天皇在位年数と西暦の比定に関しては難しい面もあるかと思いますが、この様に算出しましたことお詫び申し上げます。
また様々な歴史観が存在すると思います。この部分では『日本書紀』の記述で書いていきます。中には、事実と異なる点もあるかと思いますがご了承ください。
それでは見ていきましょう。
敏達朝[仏教と蘇我馬子]
西暦 | 天皇在位 | 概要 |
---|---|---|
572年 | 敏達天皇元年夏四月三日 | 蘇我馬子が大臣になった(『日本書紀』による初出) 物部守屋は大連のまま。 |
同年 | 敏達天皇元年五月一日 | 天皇は、皇子と大臣に高麗の使者はどこにいるかとお聞きになられた。大臣は相楽館にいまずと申し上げた。それをお聞きになった天皇は、お嘆きになられて使者の名前を無き天皇に申し上げたのにとおっしゃた。 群臣を相楽館に派遣し、送り物を調査してみやこに送らせた。 |
同年 | 敏達天皇元年五月十五日 | 天皇は高麗の国書を大臣にお与えになった。史を使って解読させたが3日かかっても解読できない。 そんな時に王辰爾が解釈を行った。天皇と大臣は震爾がいなければだれもよめなかったと褒められた。 |
574年 | 敏達三年冬十月九日 | 蘇我馬子を吉備の国に派遣した。そして白猪の屯倉と田部の農民を増やした。田部の名籍を白猪膽津に授けた。 |
575年 | 敏達四年春二月一日 | 馬子はみやこに戻った。屯倉のことを報告した |
584年 | 敏達十三年秋九月 | 百済から来た鹿深臣が、弥勒菩薩像をもたらした。佐伯連も仏像一体をもってきた |
585年 | 同年 | 蘇我馬子は、上記の仏像二体をもらい受けた。修行者を探させたすると恵便を仏法の師とした。そして馬子三人の尼をあがめさせた。 三人の尼ともに大会を行った。斎食の上に仏舎利を見つけた、それによって仏法を深く信じた。それから馬子は石川の家に仏殿を作った。仏法の広まりがここから始まった |
585年 | 敏達十四年春二月十五日 | 馬子は大野丘の北に塔を建てた。そして塔の心柱の下に仏舎利を納めた |
同年 | 敏達十四年春二月二十四日 | 馬子は病に伏した。占い師に占わせると、「父の時のに祀った仏のせいだと」言われる。その結果を子弟を使って天皇に報告した。すると帝は、その話をご了解された。馬子は仰せに従い石像に延命の祈りをささげた。 この年疫病が流行り、死者が多数出た |
同年 | 敏達十四年春三月一日 | 物部守屋と中臣勝海は疫病がはやるのは帝に国内の神を敬わないで蘇我氏が仏教を広めるからだと奏上した。帝はそれを聞き仏法を止めるよう命令した。 |
同年 | 敏達十四年春三月三十日 | 物部守屋自ら寺に行き、焼き討ちをした。馬子と尼を責め、尼はとらえられ鞭で打たれた。その後帝は任那再興を考えたが、守屋共に疱瘡にかかった。その結果任那再興計画は中止となった。次の帝候補に任那再興計画を託した。 疱瘡で亡くなる人々で溢れかえった。人々は「体は焼かれた様に苦しく、鞭に打たれたように痛い」と言いながら亡くなっていった。人々は「仏像を焼いた罪だ」といった。
|
同年 | 敏達十四年夏六月 | 馬子は帝に「私の病は仏教なしでは治りません」と奏上した。すると帝は、「お前ひとりで仏教を信仰せよ。他の人にやらせるな」とおっしゃた。 その後尼は、馬子の元に戻った。馬子はこれを喜び、尼を拝み、新しい寺院を建て、仏像を供養した |
同年 | 敏達十四年秋八月十五日 | 帝が崩御された。守屋、馬子お互いになし合う。ここから二人の仲が悪くなる
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敏達天皇元年夏四月三日(572年)
蘇我馬子が歴史の表舞台に登場するのは、572年です。詳しく見ていきます。蘇我馬子宿祢が大臣になったと書かれています。
一応大臣は、用語集には、神々を出自とする氏族に与えられた称号であるとしています。大臣ですが同じく用語集には、臣(大王の血を引く氏族の称号(姓という))を持つ人々の中で最も力を持つ人に与えられ、政治の中心をつかさどる事が出来ます。世襲制なので、父つまり、蘇我稲目も大臣でした(欽明三十一年に稲目はなくなりました)。
宿祢に関してですが、日本史を少し知っている人は八色の姓の中に宿祢が存在するので、姓と思われそうですが、太田亮『姓と家系』(数学局、一九四〇)によれば、元々人名の尊称でした。なので、姓ではありません。姓になるのは天武朝の八色の姓が制定された時です。
ここで物部守屋も同時に登場していることから、守屋と馬子に関係性がありそうですね。知っている人も多いと思いますが、何かが起こります・・・
氏族・・共同祖先から出た血族の共同体
氏人・・同じ氏族に属する人々
氏の上・・氏人の一人で氏人を統制する人。
↓時がたつにつれて氏族が増加して分裂する
氏族の身分をはっきりさせるために姓が現れた。姓には、臣、連、伴造、国造、直などがある。その最上に大臣と大連があって、それに任命された人が政治を行った。 川上多助『日本古代社会史の研究』(河出書房、一九四七)より
敏達天皇元年五月一日(572年)
敏達天皇は高麗(高句麗)からの使者は今どこにいるか馬子と皇子(この時押坂彦人大兄皇子)にお聞きになります。すると馬子は相楽郡(山城国(現在の京都南部)の南部の郡)にいますと申し上げました。
そのことをお聞きになると天皇は、「嘆かわしいことだ。この高麗(高句麗)の使者の名前は欽明天皇にご報告申し上げたのに(以下私の解釈です。「なのにもうその欽明天皇は崩御された。」」とおっしゃたと書かれています。そして群臣(天皇に使える人)を相楽に派遣して、高麗から送られた品を記録してみやこに送られたと書かれています。
では、ここから重要な点を見ていきましょう。敏達天皇が高句麗の使者についてお聞きになったのは、守屋ではなく馬子でした。ここで馬子は、外交のことを握っていたことがわかりますね。
敏達天皇元年五月十五日(572年)
敏達天皇は恐らく高句麗の献上品の中にあったと思われる国書を馬子に与えました。すると馬子は、史と呼ばれる集団(文章記録、作成にあたった人々)に解読を依頼します。ここで重要なことは、史は渡来系の人々が大部分を占めていた集団であったことです。彼らは主に文筆の仕事をした人々です。
史の人々も解読を頑張りますが、三日かかっても。解読できません。というのも、カラスの羽に書かれていて字が識別できないためです。そこで、王辰爾という人が解読を行います。彼は、羽を飯の蒸気で温めて柔らかい布に押し当てて、字を写し取る手法を披露し、見事解読し、馬子や天皇は賞賛しました。
敏達三年冬十月九日(574年)
574年に馬子は吉備の国(現在の岡山県と広島県東部)に行きます。白猪の屯倉と田部を増加さえたと書かれています。まず白猪は現在場所がわかっておらず具体的な場所はよくわかっておりません。
屯倉は天皇の持つ屯田でとれたお米を貯蔵する蔵の事ですが、基本的には、天皇の直轄地という意味ですね。田部はその田んぼを耕す人です。その人達や屯倉を増やしたと書かれています。
その田部の管理を白猪史胆津に任せたと書かれています。この白猪の屯倉は父稲目の時に稲目自身が設置した屯倉なので、子の馬子もこの屯倉の管理を行っていたようです。
敏達四年春二月一日(575年)
この屯倉についてみやこへ戻り天皇に報告しました。
敏達十三年秋九月(584年)
近江の国の豪族である鹿深臣(名前不明)が百済からきました。彼は弥勒像を一体を持ってきました。佐伯連も弥勒像を持ってきました。この佐伯連は名前はわかっていませんが、佐伯は軍事部門を担当した一族です。
敏達十三年(584年)
馬子は、この年、二人からもたらされた仏像二つをもらい受けました。その後、司馬達等と池辺直氷田を派遣して、仏教を修行している人を探させました。そしたら播磨国(現兵庫県)に高句麗出身の恵便という人を見つけ、馬子は弟子入りしました。また、司馬達等の娘である島を尼にしました。
彼女は喜信尼となりました。そして彼女の弟子二名も尼になりました。一人は禅蔵尼といい、もう一人は恵善尼といいました。馬子は一人仏教を崇拝して、三人の尼を崇めました。
その後三人の尼を司馬達等と氷田直にゆだねて衣食をあたえました。それから家の東に仏殿を建立して弥勒の像を安置しました。しかしながらこの場所はわかっていません。
三人の尼を招集して大規模な法会を行いました。佐藤英夫『聖徳太子の仏法』(講談社、二〇〇四)によれば、この法会は涅槃会と呼ばれるものだったようです。涅槃会とは、釈迦の入滅を追慕する法事です。
その法会を準備していた時のこと椀にもった食事の上に仏舎利が出現しました。仏舎利とは、釈迦の骨です。その仏舎利は馬子に献上されました。馬子は試しにその舎利を鉄床に置いて鉄の槌でたたくと鉄床と槌は砕け散ってしまいました。しかし舎利は無傷でした。
そこで舎利を水の中に入れたところ、(おそらく馬子)が心に願うがままに、水に浮き沈みしました。この不思議な現象を目の当たりにしたことで、馬子、達等、氷田は仏教の修行を怠らなくなったとしています。
それから馬子は現在の奈良県の橿原市石川町のあったとされる家に仏殿を建てたとしています。
ここでのポイントはこれが仏教の始まりだと『日本書紀』に書かれていることです。
司馬達等・・中国系の帰化人だ。『扶桑略記』によると欽明天皇の時代に公式に仏教が伝来する以前から自宅で仏を崇拝していたとされている。
池辺直氷田・・池辺直は東漢氏からわかれた氏の一つだ。東漢氏は外交、軍事 などの多岐にわたって活躍した一族だぞ
敏達十四年春二月十五日(585年)
馬子は塔を現在の場所はわかっていませんが大野丘の北に建てました。その後佐藤英夫『聖徳太子の仏法』(講談社、二〇〇四)によれば、涅槃会を行ったとしています。(本文には「大会を設斎す」)。そして達等が手に入れた舎利を塔の柱頭に納めたと記載があります。
敏達十四年春二月二十四日(同年)
馬子が病気になりました。占い師(聖徳太子の仏法』によれば巫女)に占わせると「父(稲目)の時に仏を祀ったが、それが原因で病気になった」と言います。馬子はこれを聞くと子弟を派遣して天皇に占い内容を報告します。すると天皇はそのことをお聞きいれになり、「その占いに従うように」とおっしゃた。
馬子はそれを聞いて弥勒の石像を礼拝して、寿命が延びますようにと祈ったと書かれています。その仏像ですが、584年の時の仏像の様です。
この時、日本中で疫病が蔓延しました。
これが波乱を呼びます・・・
敏達十四年春三月一日(同年)
天皇の崇拝許可に関して、物部守屋と中臣勝海が奏上します。「どうして私達の意見(仏教を崇拝しないで、神道を信仰すべきという考え方)を聞いてくれないのですか。欽明天皇の時代から陛下まで疫病がはやっています。馬子が仏を崇拝したせいです。」とうのが奏上の内容でした。
すると天皇がそのことにお答えになり「仏教を広めるな」とおっしゃいました。
物部守屋・・大連で、馬子と共に政治をけん引した。物部氏は主に軍事や刑罰を担当していた。
中臣勝海・・この時の中臣氏の中心人物。中臣氏は朝廷の祭祀を担当した。
敏達十四年春三月三十日(同年)
守屋は寺に赴き、かかとをたてないで座席に座って寺の塔を切り倒して焼き打ちしました。また寺にとどまらず、仏像や仏殿も一緒に焼きました。焼け残った仏像は、難波の堀江(大阪府の天満川とされている)に捨てさせました。
この日は雲がないのに雨が降りました。そんな時守屋は雨衣を着て、馬子と一緒に仏教に励む人を責めて辱めようと思いました。佐伯造(蝦夷出身で宮廷警護のために使役された一族。佐伯連と氏族の関係を結んだ。)を派遣して馬子に尼を引きわたすように言い、馬子は悲しみながらも周囲の尼を呼び身柄を受け渡しました。
彼女たちは法衣を奪われ、海石榴市(現在の奈良県桜井市金屋)の駅でむち打ちの刑にあいました。
そうしているうちに天皇は任那を再建しようとお考えになりました。そこで坂田耳子王(継体天皇の息子)を使者にご指名になった。その時に天皇と守屋は天然痘を患われました。それで使者を派遣する事をおやめになった。
天皇は後の用明天皇に「亡き欽明天皇のためにも任那再興を果たさなければならない」とおっしゃた。また天然痘にかかった人々は「身が焼かれ、鞭で体が砕けそうだ」と言って泣きながら亡くなっていきました。人々は「仏像を焼いた罪であろう」といったと書かれています。「鞭で打たれた様だ」という表現は尼が鞭でたたかれた部分に似ていますね。
【任那再興計画】
この部分で任那の再興計画について出てきたので説明する。今回参考にしたのは、篠川賢『飛鳥時代と古代国家』(吉川弘文館、二〇一三)を参考にしたぞ。時代はかなりさかのぼって継体天皇の時代(500年代くらい)の話をしていく。
当時の朝鮮半島は国が乱立していたぞ。北に高句麗、南に新羅そして百済、そして伽耶諸国と呼ばれる小国たちがあったのだ。
高句麗は南に軍を進めた。百済や新羅も黙って見ているわにもいかない。百済は、伽耶諸国への進出を計画した。百済から圧迫を受けていた北部伽耶地域の彼らは、連盟を組んだ。その盟主が大伽耶国だった。
この大伽耶国は新羅と手を組み今度は南伽耶諸国をせめようとした。
そうなると百済は北の高句麗、東は北部伽耶地域、南は南部伽耶地域を攻めることになる。そこで百済は倭当時の日本と手を組もうとした。
この行動に対して日本は任那四県や己汶、帯沙(この二つは伴跛国(北部伽耶諸国)に奪われた土地で、百済と日本共同で取り返した。)を百済に渡しました。この様に日本は南部伽耶諸国と密接に関係がありました。
その後、磐井の乱がおこりました新羅に負けた南加羅を復興させるために天皇は軍の派遣をご指示した。しかし北部九州の豪族の磐井が軍の移動を阻んだ。磐井は新羅から賄賂を受け取っていた。これに端を発したのが磐井の乱だ。
結果、磐井は死刑になった。軍は朝鮮半島に上陸できたものの新羅に負けてしまった。
それから欽明天皇(敏達天皇の父)に時代に、日本は任那復興計画を掲げた。これは金官国(日本と有効だった国)など新羅に併合された国々の復興を目的にしていた。
そのため安羅(南部伽耶諸国の最有力国)に拠点をつくり任那(伽耶地域の日本呼称)政府を樹立したのだ。日本の人々と日本と関わりの深い人々で組織され、日本から物部氏や、紀氏などが派遣された。これに対して百済国は一応は肯定的な反応を見せた。
その頃百済は高句麗と戦っていた。百済優勢であったが、新羅が割って入り百済が高句麗から手に入れた地域を奪ってしまったのだ。
百済は日本に援軍を求め、日本もこれに応じましたが事態は好転せず。任那は新羅に併合されることになった。
欽明天皇はこの結果を嘆き任那復興を敏達天皇にたくすことになった。
この部分はあくまで『日本書紀』に基づいて書いたぞ。了承をお願いする。
敏達十四年夏六月(同年)
馬子は天皇に「私の病は仏の力を借りなければ治りません」と奏上します。つまりは、仏教崇拝の許可を出してほしいということです。それに対して天皇は「馬子一人仏教を信仰するのはいいが他の人には仏を信仰させるな」と仰せになりました。
その後三人の尼が馬子の元にご返還され、馬子は喜んで三人を迎え入れました。そうして新たに寺(現奈良県橿原市石川村とされる)をつくり尼の世話をしました。
別の本では物部守屋と三輪君逆(天皇に信頼されて、政治を行っていた)らが仏教を滅ぼそうとして寺や塔、仏像を焼き、仏像をすてさせようとしたそれに対して馬子は従わなかったとあります。
ここの別の本の部分後々の所でおかしいと思うところが出てくるので、解するぞ。
これは事実なのかという話だが事実でない可能性が高いのだ。阿部眞司「古代三輪君の一考察」『高知医科大学一般教育紀要第九号』(高知医科大学、一九九三)によれば、まず本文では、三輪君逆は廃仏運動も崇仏運動にも参加していない。
逆という人は敏達天皇の信頼が厚い人で幅広く活躍していた。そのことからも、逆は天皇と同じ意見であったとしているぞ。
また、天皇に信頼されたのも、馬子や守屋の意見交互に認められた天皇の意見を逆は尊重し、守屋、馬子どちらにもつかず中立だったからだとしている。
加えて逆が廃物運動に関わったとされているのは、三輪山を崇める一族だったからとしている。
敏達十四年秋八月十五日(同年)
天皇が重病になられました。この時ご遺体を安置する場所を現在の奈良県北葛城郡広稜町付近に建てました。
馬子が刀を腰につけ故人をしのぶ言葉を申し上げていると守屋は、「弓矢で射抜かれたスズメみたいだ」と笑い出し、今度は守屋が、死者をしのぶ言葉を申し上げているときに守屋が体を震わせているのを野次って「鈴をつけたらどうだと」馬子が笑いながら言い、お互いに恨みを抱き始めました。
三輪君逆は、ご遺体の安置場を警護させました。これに対して穴穂部皇子(また登場します)が天下を狙っていたので「なぜ亡くられた天皇につかえて、生きている時代の天皇ところに仕えないのか」と怒ったと書かれています。
用明朝「守屋と馬子の対立」
西暦 | 天皇在位 | 概要 |
---|---|---|
585年 | 敏達十四年秋九月五日 | 用明天皇即位。蘇我馬子を大臣にして、物部守屋は大連にした。 |
586年 | 用明天皇元年夏五月 | 穴穂部皇子が炊屋姫皇后と関係を持とうとして、皇后がいるところへ侵入しようとしたが、三輪君逆が宮門を開けなかったことで事なきを得る。しかし、穴穂部皇子は物部守屋と蘇我馬子に逆を切り捨てたいと言う。これは穴穂部皇子が王を狙っていて、逆を殺そうと企てていたのだ。 とうとう守屋と兵を率いた穴穂部皇子は逆を討とうとしたが、逆は逃げたが、逆の一族が居場所を密告して、守屋をその場所に使わせた。馬子はよそにいてそれを聞き急いで穴穂部皇子の元へ行き、穴穂部皇子を諫め、守屋が戻るのを待った。 しかしながら、到着した守屋は逆を殺したことを報告した(穴穂部皇子が自ら射殺したとも)。このことに馬子は「天下は荒れる」と嘆いたが、守屋は、「小物にはわからない」と吐き捨てた。 逆は敏達朝から重用され内外のことを任されていた。このことで、炊屋姫皇后と馬子は穴穂部皇子を恨んだ。 |
587年 | 用明天皇二年夏四月二日 | 新嘗祭りが行われた。しかし、帝は病で宮中に帰られた。帝は、重臣たちに、「仏法を敬いたい。みんなも考えほしい」とおっしゃった。重臣たちは相談した。守屋と中富かつ海連は、これに反対した。他紙して馬子は、「帝のご意向にそうべきだ」と主張した。 穴穂部皇子は豊国法師と共に内裏に入られた。そのことに対して守屋は怒った。このとき守屋は自分を陥れようとすしていると押坂部史毛屎から聞き、河内の阿都に戻り人を集めた。勝海は兵を集めて、守屋を助けた。太子彦人皇子と竹田皇子の像をかけて呪った。
|
敏達十四年秋九月五日(585年)
用明天皇がご即位します。蘇我馬子は大臣で、物部守屋は大連となり続投となりました。
用明天皇元年夏五月(586年)
穴穂部皇子は炊屋姫皇后(後の推古天皇)を襲おうと考え、炊屋姫皇后のいる場所に入ろうとしました。寵臣三輪君逆は兵を集めて炊屋姫皇后のいる場所の門をかため、皇子は入れなかった。皇子は「誰がそこにいるのか」とたずねると、兵は「三輪君逆がいます」といい、皇子が七回門を開けろと叫んだが、門があくことはありませんでした。
そのことに怒った皇子は馬子と守屋に語って「逆は無礼なことをたびたびする。逆は、敏達天皇が崩御された時、しのぶ言葉を申し上げて『朝廷を荒らなず、治安を守ってお仕えします』と申し上げたこれが無礼だ。天皇の親族は多くいて、一人だけに仕えるなど言っていいはずがない。加えて、私が炊屋姫皇后のいる場所へ向かおうとしたら、入れさせてくれない、切り捨てようと思う」と言います。
皇子は密かに王になろうとしていたので、逆を排除しようとしました。その後守屋と一緒に用明天皇がいる場所へ兵をひきいて、取り囲みます。逆はこれを知って三輪山に隠れます。
そしてその日の夜中に炊屋姫皇后の別邸に逃げ込みます。しかし、同じ一族の二人が逆の場所を伝えます。皇子は、守屋を派遣して「お前が行って、逆とその子供を殺せ」と言います。
守屋は大軍を率いて進軍します。馬子はそのことを別の場所で聞きます。そこで皇子の所に向かい、皇子の家の門の前で二人は出会います。
皇子は守屋の所へ行こうとしていたので「王は罪人の元へみづから行きってはいけません。」と言い、制止させます。ところが、皇子は聞かずに用明天皇のいる場所に向かっていいったので、馬子は急いで追いかけ、何とか思いとどまらせることに成功します。
そして、その場で待った。かなり時間がたって、守屋がかえってきた。守屋は「逆を討ちとってきました」と報告しました。
そのことを聞き、馬子は嘆き「近いうちに、天下は乱れるだろう」と言いました。ところが、守屋は「お前の様なやつにはわからないだろう」と答えた。
こうして、馬子と炊屋姫皇后は皇子を恨むようになりました。
【穴穂部皇子は馬子と守屋になぜ、逆に対しての不満を言ったのか】
阿部眞司「古代三輪君の一考察」『高知医科大学一般教育紀要第九号』(高知医科大学、一九九三)によれば、まず、天皇の子孫は多くおり、かつ大臣や大連もいるのに忠臣の様に振る舞うことへの不信感、加えて敏達天皇に信頼されていたため、馬子や守屋よりも地位が下なのに宮廷内の序列は上という部分で反感が芽生えていたのではとされているぞ。
用明天皇二年夏四月二日(587年)
新嘗祭り(収穫祭)の儀式が行われました。この日に天皇はご病気になってしまい、宮にお帰りになります。
天皇は自分の側近たちに「私は仏教を信仰しようと思う。お前たちもそのことについて協議しなさい」とおっしゃいました。
側近たちは、集まって協議します。守屋と中臣勝海は反対して「どうして、日本に昔からあいる神に背いて仏を信仰するのか。」と言います。馬子はこれに対して「天皇の御心に従わない選択肢はない」と言います。穴穂部皇子は豊国法師を連れてきました。
それに対して守屋は怒った。(穴穂部皇子のために逆を殺したのになんで、守屋の意見を踏みにじるのかという気持ち)
この時、押坂部史毛屎が急いできて、こっそり守屋の所にやってきて「側近があなたを陥れようとしています。」と言います。守屋はこれを聞いて守屋の別邸に戻り、兵を集めます。
中臣勝海は軍を集めて、守屋を助けました。そして(恐らく勝海は)彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪いました。しばらくして、それがうまくいかないと思って、彦人皇子に従う事にします。しかし勝海は彦人皇子のもとを出ると、舎人迹見檮という人物に暗殺されてしまいます。
守屋は使いを馬子の所に出して、「私は天皇の側近たちに陥いれられると聞き、私は退出したのだ。」と語りました。このことを聞いた馬子は、大伴昆羅夫連(詳細不明)に使いを出して、馬子の家を守ってもらいました。
天皇のご病気はとうとう重くなり、司馬達等の息子が「天皇のために、仏道を学び、仏像とお寺をつくります」と奏上します。天皇はこれをお聞きになって悲しまれました。
【勝海はなぜ暗殺されたのか?】
勝海は、守屋方の人間でこの次代天皇擁立問題では、穴穂部皇子を支持していると思われる。というのも、勝海と守屋が一緒に出ているからだ。
またもう一つの証拠は暗殺される以前に二人の皇子を呪っている部分からもわかるぞ。しかし、彼は、呪いが成就しないと考えると彦人皇子に乗り換えてしまう。
そのすぐ後に殺されたので、守屋側の人間が裏切りを察知して暗殺したのかと思うところだが、舎人迹見檮という人物が暗殺してまう。
この人物は、守屋討伐の時に馬子方についていることから考えると、穴穂部皇子擁立派を消すために馬子が差し向けた人だと考えられるぞ。
崇峻朝「守屋の死と馬子の天下」
西暦 | 天皇在位 | 概要 |
---|---|---|
587年 | 用明天皇二年夏四月 | 用明天皇崩御。 |
同年 | 用明天皇二年五月 | 守屋の軍が三回も人々を驚かせた。穴穂部皇子を天皇に擁立しようとしたが、その企みは失敗した。 |
同年 | 用明天皇二年六月七日 | 馬子は炊屋姫尊を奉じて、佐伯らに軍を整え、穴穂部皇子と宅部皇子を討てと命令した。この夜に穴穂部皇子は討たれた。 |
同年 | 用明天皇二年六月八日 | 宅部皇子は殺された。穴穂部皇子と仲が良かったためである。 |
同年 | 用明天皇二年六月二十一日 | 善信尼らは大臣に百済で受戒の法を学びたいと申し出た。 この月百済の使者が来ていたのでこのことを相談すると「王にそのことを申しあげましょう。それから出国させても遅くないでしょう」と語った。 |
同年 | 用明天皇二年秋七月 | 馬子は、守屋を滅ぼそうと提案した。厩戸皇子などが立ち上がり、守屋を討ちにいった。厩戸皇子は、四天王に誓いを立て、護世四王のための塔を建てると言われた。馬子もこの戦にかったならば、寺塔を建て仏法を広めましょうといった。その後守屋一族を討ち滅ぼした。 馬子の妻は守屋の妹だ妻の計を用いて軽々しく殺したと世の人は言った。 馬子は誓い通りに法興寺を建立した |
同年 | 用明天皇二年八月 | 即位の礼が行われ、崇峻天皇が即位した。馬子はそのまま大臣の職についた。 |
588年 | 崇峻天皇元年 | 百済の使者が来た。馬子は百済の僧にじ受戒の法を請い、善信尼らを百済に行かせた。法興寺をつくった。この場所を飛鳥の真神原と名付けた。 |
590年 | 崇峻天皇三年春三月 | 善信尼らが百済からかえってきた。 |
592年 | 崇峻天皇五年冬十月十日 | 馬子は帝が自分を嫌っていると考えるようになった。そこで一族を集めて、帝の暗殺計画を考えた。 |
同年 | 崇峻天皇五年冬十一月三日 | 馬子は帝を東漢値駒を使って暗殺した。 |
同年 | 崇峻天皇五年冬十一月 | 東漢値駒は、蘇我嬪河上娘をひそかに妻にした。馬子は河上娘が駒に盗まれたことを知らなかったので、彼女は死んだと思っていた。けれど、駒が嬪をけがしたことが発覚し、大臣のために殺された。 |
用明天皇二年夏四月(587年)
用明天皇が崩御されました。
用明天皇二年五月(同年)
守屋の軍勢が穴穂部皇子を天皇にしたいと三度その活動の盛り上がりを見せることになりました。
もともと守屋は穴穂部皇子を天皇にしたいと思っており、他の皇位継承権を持っている人に替えて穴穂部皇子を擁立しようと考えましたが、この陰謀は外部に漏れて失敗してしまいました。
用明天皇二年六月七日(同年)
馬子たちは炊屋姫尊を討伐隊の長にして、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真嚙に炊屋姫尊は「お前らは、装備を整えて、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せと」命じられました。
その日の夜半に、佐伯たちは、穴穂部皇子の宮を囲みました。そして馬子たちの兵が高い建物に登って穴穂部皇子の肩を切ります。
皇子は、高い建物にいたのでしょう、そのまま建物から落ちて、隣の建物に逃げ込むと兵は、火をともして皇子を殺害しました。
用明天皇二年六月八日(同年)
次の日には宅部皇子が殺されます。理由としては、『日本書紀』によれば、穴穂部皇子と仲が良かったためであるとしています。
用明天皇二年六月二十一日(同年)
善信尼たちは、馬子に「百済に行って仏教の決まり事を学びたいと思います」と語ります。
この月に、百済の使者が来ます。馬子は使者に「尼たちを留学させて、仏教の決まり事を学び終えたら、送り返してほしいと」頼みます。
すると、使者は「私たちが帰国して国王にそのことを申し上げておきましょう。その後に彼女たちを留学させてもいいでしょう」と答えました。
用明天皇二年秋七月(同年)
馬子は諸皇子と天皇の側近たちに持ちかけて守屋を討ち滅ぼす計画を立てます。柏瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子らは軍隊を率いて守屋を倒さんと行軍しました。また大伴連嚙らは軍を率いて、守屋の家がある渋河へと到着しました。
これに対して守屋は、自分の一族と守屋私有の奴隷たちを率いて、稲を積んで城をつくり戦いました。守屋は、渋河郡の衣摺にあるえのきに登って見下ろし矢を放ちます。
守屋軍は屈強でした。一方で、皇子たちと天皇の側近たちの群衆は弱く三度も撤退します。この時、厩戸皇子は、髪を額に束ねて、軍の後ろに下がりました。
聖徳太子自身で判断して、「もしかすると負けるかもしれない。祈願しないと勝てないだろう」とおっしゃって白膠木(仏像の中心の木として使われる)を切り取って、
四天王像(仏教の守り神)をつくりました髪を房の様にしているところに置いて、聖徳太子は「もし敵に打ち勝てたなら、四天王のために寺塔をつくりましょう」とおっしゃり誓いをたてました。
馬子も同じく「諸天王、大神王たちよ、私に勝利をください、もし勝利したならば、諸天王、大神王たちのために寺塔を作って、仏教を広めます」と誓いをたてました。誓いをたて終えると、いろんな武器を装備して戦場へと向かいました。
すると迹見赤檮は木に登って矢を放ち、守屋とその子どもたちを射殺します。守屋の軍はたちまち瓦解して、守屋の兵は、黒衣(家人(奴隷)が着る服)を着て、逃げ出しました。
守屋一族は名前を変えて逃げ隠れ、逃亡しました。その時の人々は「馬子の妻は守屋の妹である。馬子は妻の企み(守屋の財産目当て)で守屋を殺した」と言いました。
乱が平定されると大阪府に四天王寺を建てました。守屋の奴隷と土地は、半分が馬子のものになり、もう半分が四天王寺のものになりました。また守屋を打ち取った迹見赤檮には田んぼを与えられました。
また馬子は誓い通り、飛鳥に法興寺を建立しました。
この守屋との戦いのことを丁末の乱と言うぞ
また後に即位することになった崇峻天皇が参戦していることもポイントだな。これによって、馬子らに推されて天皇となった。
用明天皇二年八月(同年)
即位の礼が行われ、崇峻天皇が即位しました。馬子はそのまま大臣の職に続投という形になりました。
崇峻天皇元年(588年)
この年百済からの使者や僧侶が着て、仏の骨が献上されます。また寺院建築職人や瓦職人などの有識者と共に仏の骨も献上されました。
馬子は来日した僧を招いて、仏教の正しい教えを聞きます。善信尼らを百済の使者に託して留学させました。
また、法興寺を創建してこの場所を飛鳥の真神原と名付けます。(雄略紀に百済からの渡来人がこの地に移ったとある)。また飛鳥の苫田と名付けたともあります。
崇峻天皇三年春三月(590年)
善信尼らが百済からかえってきました。そして桜井寺というお寺に住みました。
崇峻天皇五年冬十月十日(592年)
下の文章を参照していただきたいと思いますが、崇峻天皇が馬子を嫌っていたようです(馬子が政治の中心にいて好き勝手できないから)。そのことを聞いた馬子は、一族を集めて天皇暗殺を計画しました。
崇峻天皇五年冬十一月三日(同年)
馬子は帝を東漢直駒を使って暗殺しました。
「別の本には、大伴嬪小手子(崇峻天皇の妃)は天皇の愛が途絶えたことを恨んで、馬子に使いを出してこう伝えたようです。「最近、猪を献上する人がいました。」天皇はその猪を指さしてこうおっしゃいました「この猪を切断するようにいつか、私の思う人を切ってみたいものだ」と。また内裏に武器を大量に集めています」と。馬子はそれを聞いて驚いた都市提います。(崇峻天皇五年冬十月四日にも同じ内容の記事があります。)
この部分が一応崇峻天皇暗殺の理由となるようです。
崇峻天皇五年冬十一月(同年)
東漢値駒は、蘇我嬪河上娘をひそかに妻にしました。馬子は河上娘が駒に盗まれたことを知らなかったので、彼女は死んだと思っていました。けれど、駒が嬪をけがしたことが発覚し、大臣に殺されました。
推古朝「馬子の時代と最期」
西暦 | 天皇在位 | 概要 | |
---|---|---|---|
592年 | 崇峻天皇五年冬十一月 | 崇峻天皇暗殺 | |
同年 | 崇峻天皇五年冬十二月八日 | 推古天皇即位 | |
593年 | 推古天皇元年春一月十五日 | 仏舎利を法興寺の仏塔の心礎の中に納めた。 | |
同年 | 推古天皇元年夏四月十日 | 厩戸皇子が皇太子及び摂政になられた。 | |
594年 | 推古天皇二年春二月一日 | 皇太子、大臣に詔して、仏法の興隆が行われた。人々は争って仏舎をつくった。これらは寺と呼ばれた。 | |
596年 | 推古天皇四年冬十一月 | 法興寺が落成。馬子の長子が寺司になった。慧慈、慧聡の僧が法興寺に初めて入った。 | |
603年 | 推古天皇十一年春二月四日 | 新羅征討の将軍来目皇子が亡くなられた。そのことを聞いた帝は驚かれ、馬子と太子に新羅征討を大事に臨んで後を続けられないと悲しみにながらおっしゃった。 | |
605年 | 推古天皇十三年夏四月一日 | 天皇は太子・大臣らに誓願を等しく立てるようおっしゃり。はじめて縫物と銅で仏像を各一体をつくり始めた。 | |
612年 | 推古天皇二十年春一月七日 | 宴が催され、馬子は寿ぎの言葉を申し上げ、これに対し、帝は歌で答えた。 | |
同年 | 推古天皇二十年春二月二十日 | 皇太夫人堅石媛を欽明天皇陵に葬った。この日軽街中で死者を悼む言葉を順番に奏上した。三番目に中臣宮地連鳥摩侶が馬子の言葉を誄した。四番目に馬子が多数の支族をつれて、境部臣摩理勢に氏姓のもとについて誄を言わせた。 この時の人々は中臣宮地連鳥摩侶や境部臣摩理勢は誄をよく述べたが、鳥臣(最初に者を悼む言葉を述べた人物)はよく誄をすることが出来なかったといった。 | |
614年 | 推古天皇二十二年八月 | 馬子は病気になった。馬子の病気平癒を祈り男女一千人を出家させた。 | |
620年 | 推古天皇二十八年 | 太子と馬子は天皇記、国記また人々の記録をつくった | |
623年 | 推古天皇三十一年 | 任那が新羅に滅ぼされた。そこで帝は新羅を討とうとされた。馬子を中心に会議が行われ、田中臣が主張した新羅反戦論が勝ち。新羅征討をやめた。 使者を新羅また任那に派遣した。新羅王は、任那を好き勝手にしないといったが、使者が戻る前に新羅に軍を派遣した。新羅王は大軍が来ると聞き、降伏を願い出た。帝はこれを聞き入れられた。 | |
同年 | 推古天皇三十一年冬十一月 | 馬子は新羅からの帰国者に様子を尋ねたところ使者は調だけたてまつるといった。馬子は、早く軍を送らなければよかったなあといった。 人々は今回の軍事は、境部臣らが賄賂を受け取ったものだから、馬子が進めたのだそして使者を待たずに軍を送ったのだと言った。 | |
624年 | 推古天皇三二年夏四月三日 | 一人の僧が祖父を殺した。帝は馬子をお呼びになっておっしゃるには、出家したのに、こんな惨い事をするのか。僧尼を呼んで、よく調べろと。この時百済の観勒は、上表してまだ日本の人々は仏法に慣れていません。なので悪逆をした者以外許されますようお願いしますといった。それを帝は聞き入れられた。 | |
同年 | 推古天皇三二年冬十月一日 | 馬子は帝に先祖の場所である葛城県をいただきたいと言ったが、帝は自分は蘇我家の人間で馬子のいう事はなんでも聞いてきた、だからこそ葛城県をあげたら後世の帝に馬子の言いなりになったせいでついに一つの県をつぶした愚か者と思われてしまう、また馬子も不忠とされてしまうだろうとおっしゃり許可は下りなかった。 | |
630年 | 推古天皇三四年夏五月二十日 | 馬子がなくなった。石舞台古墳に葬った。飛鳥河周辺に居を構えた。その庭の中に小さい池を掘り、その中に小さな島をつくった。それで人々は島の大臣と呼んだ。 |
崇峻天皇五年冬十一月(592年)
崇峻天皇は暗殺されてしまいます。これは上記を参照してください。
崇峻天皇五年冬十二月八日(同年)
推古天皇がご即位されます。
推古天皇元年春一月十五日(593年)
釈迦の骨を法興寺の仏塔の心礎の中に納めたと書かれています。
推古天皇元年夏四月十日(同年)
厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子及び摂政になられた。
この時にあの有名な摂政聖徳太子が誕生しました。
推古天皇二年春二月一日(594年)
推古天皇は皇太子、大臣に仏法の興隆を行わせられました。すべての臣や連の姓の人は天皇のために争って仏舎をつくりました。これらは寺と呼ばれました。
推古天皇四年冬十一月(596年)
法興寺が完成します。このお寺の管理人は馬子の長子の善徳臣がなりました。この日に慧慈、慧聡(二人は聖徳太子の師匠)が初めて法興寺に入ってそこに住みました。
推古天皇十一年春二月四日(603年)
新羅征討(任那は新羅に攻め込まれたので、征討作戦を立案した)の将軍来目皇子(この8か月前に病にかかった)が亡くなられました。そのこと使いからをお聞きになった天皇は驚かれ、馬子と太子に「来目皇子がなくなり、新羅征討というものを成し遂げられないと悲しみながらおっしゃった。」と書かれています。
上述(敏達十四年春三月三十日(同年))のことからも任那という場所は特別な場所であったことがわかりますね。
推古天皇十三年夏四月一日(605年)
天皇は太子や大臣らに神仏に等しく誓いを立てて祈願するようおっしゃり。はじめて縫物と銅で仏像を各一体をつくり始めた。そこで鞍作鳥(司馬達等の孫)を仏像をつくる職人に命じました。
この鞍作鳥は飛鳥時代の文化を学ぶ上で非常に重要な人物です。しっかりと覚えましょう。代表作に法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像があります。
推古天皇二十年春一月七日(612年)
宴が催され、馬子は歌を天皇に申し上げました。簡単な内容としては、天皇はご立派であり、私達は崇め奉りながらお仕え申し上げますといったような内容です。これに対し、帝は歌でお答えになりました。内容としては、蘇我氏の様な素晴らしい一族を使うのは理にかなったことだというような内容です。
推古天皇二十年春二月二十日(同年)
欽明天皇の妃で用明天皇、推古天皇の母でもある堅塩媛を欽明天皇陵に葬りました。この日に軽(現橿原市)の街(その地域で南北に通じる大通りと山田道が交わる場所)で死者を悼む言葉を順番に奏上したました。
三番目に中臣宮地連鳥摩侶が馬子の代わりに誄(死者をしのぶ言葉)を述べました。四番目に馬子が多数の氏族をつれて、境部臣摩理勢に氏姓の本(堅塩媛についての出自か?)について誄を言わせた。
この時の人々は「中臣宮地連鳥摩侶や境部臣摩理勢は誄をよく述べたが、阿部鳥臣(最初に者を悼む言葉を述べた人物)はうまく誄をすることが出来なかった」と言いました。
推古天皇二十二年八月(614年)
馬子は病気になりました。馬子の病気平癒を祈って男女一千人を出家させました。
推古天皇二十八年(620年)
聖徳太子と馬子は天皇記、国記また人々の記録をつくりました。
推古天皇三十一年(623年)
この年に任那が新羅によって征服されます。
馬子に相談して会議が行われ、田中臣が主張した新羅反戦論が勝ち。新羅征討をやめた。
使者を新羅また任那に派遣しました。新羅王は、任那を好き勝手にしないといいますが、使者が戻る前に新羅に軍を派遣しました。新羅王は大軍が来ると聞き、降伏を願い出ました。帝はこれを聞き入れらたと書かれています。
推古天皇三十一年冬十一月(同年)
馬子は新羅からの帰国者に様子を尋ねたところ使者は「贈り物だけ差し上げる」といいました。馬子は、「軍勢を送るのが早すぎたなぁ」と言いました。
人々は「今回の軍事は、以前の新羅征討の際、境部臣らが賄賂を受け取って新羅の征討を中止したことがあった、今回も馬子はあえて新羅を攻める事で賄賂を受け取ろうとして、使者を待たずに軍を送ったのだ」と言ったと書かれています。
推古天皇三二年夏四月三日(624年)
一人の僧が斧でその僧の祖父を殴りました。
天皇はこのことをお聞きになり、馬子を呼んで「出家した人は、修行に打ち込んで、仏教の決まり事を守るものだ。考えずに、こんなひどい行為をすることがあっていいのか。僧が祖父をなぐったとのことだ。そこで、諸寺の僧尼を集めて尋問しろ。もし事実なら、重罪としなさい」とご命じになった。
そこで諸寺の僧尼を集めて尋問して、悪行を犯した僧だけでなく諸寺の僧尼も罪に問おうとします。その時に百済の観勒という有名な僧が天皇に意見します。
その内容は、「西の国から中国に来て三百年がたち、さらに百済に来てわずか百年です。百済の聖明王は、天皇が知力そして徳に優れていると聞いて、経典と仏像とを送りました。
それから百年たっていません。なので僧尼がまだ法律に習熟してないため、軽率に悪行を行ってしまったのです。僧尼たちは、恐れ、かしこまっています。どうか罪を犯したものを除いてそのほかの僧尼に対して罪を問うのはおやめください」といったものでした。
天皇はこれをお聞き入れになりました。
聖明王が欽明天皇に仏像と経典を送ったことで仏教が公的な交渉で日本に入ってきましたこれを仏教公伝という。
百済の僧の観勒は暦を伝えたことで有名。
この二つはテストにでるかもしれない。しっかり覚えよう!
推古天皇三二年冬十月一日(同年)
馬子は天皇に先祖の場所である葛城県をいただきたいと言います。
しかし天皇は自分は蘇我家の人間で馬子のいう事はなんでも聞いてきた、だからこそ葛城県をあげたら後世の天皇に馬子の言いなりになったせいでついに一つの県をつぶした愚か者と思われてしまう、また馬子も君主に対して従順じゃないとされてしまうだろうとおっしゃり許可は下りませんでした。
恐らく、馬子の操り人形と思われるのを嫌い。その望みを却下するために馬子も公の土地を奪い取った忠誠心ない人間と思われるという事を指摘したのかなと思います。
推古天皇三四年夏五月二十日(626年)
馬子がなくなりました。桃原墓にご遺体は葬られました。これは現在では石舞台古墳と思われます。
性格は軍事や戦略に強く、人の議論の内容に関して違いをはっきりさせる力があり、仏教を深く信仰したと書かれています。飛鳥川周辺に住んでいました。その庭の中に小さい池を掘り、その中に小さな島をつくりました。それで人々は島の大臣と呼びました。
別視点で見る蘇我馬子
年表の蘇我馬子は、『日本書紀』を参考に書きました。
『日本書紀』での蘇我馬子を、簡単にまとめると
①政治の最高責任者
②渡来人の指揮者
③仏教を積極的に行い、仏教を最初に広めた人
④物部守屋を倒した
⑤崇峻天皇を暗殺した
⑥軍事や戦略に強く、議論をまとめるのが上手
といったところでしょうか?歴史は書く人によって見方が変わることが多くありますそこで、渡辺信和「「聖徳太子伝」における蘇我馬子」『同朋大学沸教文化研究所紀要第二十二号』(同朋大学沸教文化研究所、二〇〇三)を参考に各資料に出てくる蘇我馬子像をまとめました。抜粋してい部分もあるので、詳しく知りたい方は論文をご覧ください
①馬子は内政、外政で絶大な権力を持っており
【例】尼の派遣も馬子の意思で決めている(外政)
彼の意向で用明天皇崩御後の天皇を決めている(内政)
②仏教を実質的に興隆した
③馬子自身も仏教で病が治ったことがあるので、用明天皇崩御直前の仏教崇拝の意向をあと押ししている
⇒天皇の意向を尊重する馬子
④天皇の守屋の仏教停止の提案を無条件で答えていることから、守屋との力関係があった
⇒年齢差がその一因か?
⑤馬子の評価は最後の性格の部分に表されている。乙巳の変とは無関係
といったことが挙げられるでしょう。下の資料よりも好意的な評価を受けている印象があります。次に中世頃に盛んに読まれた『伝暦』を見ていきましょう。
①仏像の破却を提示する守屋に対して、聖徳太子はこれに反対するも馬子は特になにもいわない
②守屋合戦で後方に聖徳太子は下がっていたのにその舎人(身の回りの世話をする人)の迹見赤檮が暗殺したことになっている
⇒聖徳太子が守屋合戦の主役になる
③仏教を実質的に興隆した
③崇峻天皇暗殺は馬子のせい(天皇に対する忠義心がない)であるという見方が強い
④太子が貧しい人を助ける場面があり、その非難した役人の内の一人が馬子で、
俗人の頂点馬子⇔聖人聖徳太子
⑤馬子の聖徳太子賞賛
聖徳太子中心の話なので、この様な書かれ方をするのは当たり前かなとも思いますが、太子の比重の部分が増していると思われます。次に挙げるのが、『聖徳太子伝記』の文保本(文保は1317~1319まで)を参考にしてみましょう。
①日本最初の寺院建立に対しては、聖徳太子の教えを受けた馬子が建てたことになっている
②太子の教えで、太子の乳母が出家した
③守屋の仏法破却を許してない
⇒守屋側の妥当性がなくなり、禍を引き起こす神にそそのかされたことになっている
④守屋合戦聖徳太子参戦理由
(1)守屋が用明天皇(太子の父)に呪をかける
(2)聖徳太子が広めた仏教の破却
⇒聖徳太子が守屋討伐の主体に変えるための根拠
⑤守屋合戦の主導者は聖徳太子であり、その下に将軍が数人いる。その中の一人が馬子
⇒馬子が聖徳太子の臣下扱い
⑥用明天皇が馬子に送った遺言
(1)軍事は馬子に相談しなさい
(2)内政は小野妹子に相談しなさい
⇒側近蘇我馬子
⑦崇峻暗殺に関しての記述
(1)崇峻天皇が遷都を提案する
(2)馬子が遷都する場所は洪水などが起きる場所である、民の負担が増えるなどの理由で反対
(3)崇峻天皇の言う事は絶対。馬子は、おごっているとしており、馬子を殺すべきだと太子に論じる
(4)これに対して太子は、馬子は凄い功績がある。天皇の命令に従わなかったといえども忠臣であるといい、殺すのではなく仏教的なもので罰するべきと提案
(5)結局、崇峻天皇五年冬十一月三日の猪の件で馬子を怒らせ暗殺される
(6)太子は馬子が仏教の因果(私見:悪いことをすれば悪いことがかえって来るということか)をわかってないとしている
(7)東漢直駒に関しては、天皇暗殺を断罪
(8)馬子が駒を殺す場面では、天皇は絶対で馬子の命令を聞いて馬子に暗殺の汚名をきせたのが断罪の理由
(9)駒は天皇が絶対的なものだと思わなかったといい、馬子に切り殺される
(10)入鹿が殺されたのも崇峻天皇暗殺のせい
この様に見ると馬子は崇峻天皇暗殺を行った人であり、それが原因で、乙巳の変が起こるという感じになっていますね。
聖徳太子が主役な部分は別として、馬子は聖徳太子の部下としての色が強まり、仏教の布教の部分は弱まり、悪人の色が濃くなっている感じがしますね。
最期に教科書にも出てくる慈円著『愚管抄』を見てみましょう。
①仏教を崇拝する馬子は正しい
⇒崇峻天皇は徳がないから暗殺された。しかし、舎利が送られたのは崇峻天皇の治世であって、崇峻天皇の意向があったと思われるのに悪者になっている。矛盾
私が取り上げた史料が仏教関係なのもあるかもしれませんが、仏教部分が時代と共に強くなっている印象ですね。他の時代の史料で確認するのもありかもしれませんね。
この様に歴史というものは、人の見方によって変わるので、比較するのが大切だと思います。
まさに時代の人蘇我馬子の華麗なる系図
では、蘇我馬子の家系図を見ていきましょう。
(浜島書店(編)『新詳日本史』(浜島書店、二〇一七)p46より引用)
蘇我稲目を見てみましょう。彼には娘が二人います、そして息子に馬子がいますね。
一人目の娘は、堅塩媛は欽明天皇の妃になっており、子どもに推古天皇と用明天皇がいます。またもう一人の娘もまた欽明天皇の妃になっています。小姉君です。彼女との間には、穴穂部皇子、穴穂部皇女、崇峻天皇がいます。この様に考えるとこの時代の天皇は蘇我氏の系統ばかりですね。
また、馬子の娘の河上娘は崇峻天皇の妃になっています。またこの系図にはありませんが、馬子の妻は、物部氏の娘でした。この様に考えてみるとこの時代の中心に立っていた一族は間違えなく蘇我氏であったことがわかりますね。
また馬子の娘たちは皇族に嫁いでいますね。ただし、彼女らの息子たちは、天皇になっていませんね。盛者必衰ですね。
しかしながら、聖徳太子の時代はまさしく蘇我氏の時代であったということは間違いないでしょう。
【推古天皇と敏達天皇について】
近親婚が多いと感じませんか?
この時代は恐らく問題になっていなかったでしょう。ですが、中世では既に近親婚についてあまり良い印象はなかったようです。
それが、鎌倉時代に書かれた慈円著の『愚管抄』に書いています。簡単に書くと「推古天皇は兄である敏達天皇に嫁いだ、これはどうしてかと思うかもしれないが、当時は問題はなかったのだろう。兄弟の結婚がだめという道徳は、特に仏教によって形作られた。」(慈円、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』(講談社学術文庫、二〇一二)参考)としています。
ただ仏教色が強いので、もしかすると中世ではそれを良しとする人達もいたかもしれませんね。実際、近世になっても天皇に后は藤原氏の人物が多いですよね
まとめ 蘇我馬子
蘇我馬子いかがだったでしょうか?蘇我馬子のことについてよくわかりましたか?
最期に大切なことをまとめてみましょう。
①蘇我馬子は、敏達、用明、崇峻、推古の四代で、政治の中心をになった
②仏教の布教に尽力した
③物部守屋に勝って、崇仏論争に勝った
④『日本書紀』以降の時代では、仏教崇拝者、聖徳太子の側近としての面が強くなる
⑤馬子の息子には、蝦夷、孫には入鹿がいる。
この様な感じにまとめられますね。蘇我馬子は歴史的に重要人物です。しっかり覚えましょう。