歴史上の人物の中でも、なにかと話題になることの多い「西郷隆盛」に、あなたはどんな印象を持っているでしょうか?
「鹿児島県」「犬」「薩摩同盟」「西南戦争」など、人によって印象に残っていることは様々でしょう。因みに筆者は「桃鉄のおいどん」です(笑)鹿児島に着くとおいどんが加勢してくれるので、とても楽しいですよね!そんなゲームに登場したり、大河ドラマやテレビでも取り上げられることの多い「西郷隆盛」ですが、一体どのような人物だったのでしょう?
今回は、維新三傑の1人でもある、「英雄西郷隆盛」の功績や年表、性格や死因、そして隆盛の仲間たちについても詳しく解説していきます。
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西郷隆盛ってどんな人?
西郷隆盛が誕生したのは、江戸時代1828年(文政11年)1月23日、鹿児島県城下の下鍛冶屋町山之口馬場で、父・西郷吉兵衛と母・マサの長男として生まれます。幼名は小吉と言いました。幼少期は貧しい家庭で育ち、両親と小吉、そして妹、弟が3人ずつの計9人家族だったので、満足に食事も取れず、子供たちは皆揃って朝から晩まで畑仕事や薪拾いをして、家計を手伝っていたと言います。
少年になった頃、隆盛は「剣術」の稽古に励みました。武士たるもの、剣術を身につけることは、今で言う「必修科目」のようなものだったのです。見た目が大きく、ここまで有名になった隆盛は、一見すると、剣術にしても勉学にしても、さぞかし優秀であったと思いがちですが、実は勉強も苦手で、剣術の上達もかなり遅かったと言います。
隆盛が11歳のとき、祭りの帰り道で「横堀三助」という若者にケンカを売られたことがありました。隆盛は、身体も大きく度胸もあり、何かと目立っていたため「横堀三助」は隆盛のことが気に入らなかったのです。しかし、なんといっても隆盛の相撲の腕はピカイチですよね!三助を難無く投げ飛ばし、簡単に決着がつきました。
三助も黙っていられるわけありません。それから数日後、三助は隆盛を鞘に入ったままの刀で襲います。しかし、あまりに勢いよく襲い掛かったため、鞘が割れてしまい、隆盛は右肩から肘まで大怪我をしてしまいます。これによって、剣術の道を諦めることとなってしまったのです。
剣術を諦めた隆盛は、学問の道を究めようと決意します。そこから、一心不乱に読み書きの勉強を始めました。この勉学に打ち込んでいるときに親友になったのが「大久保利通」でした。
薩長同盟
長州藩には薩摩藩から「武器」を渡し、薩摩藩から長州藩には「米」を渡したのです。お互いに不足していたものを補い合うことで、2つの藩の対立は収まり、距離が近付きました。
薩摩藩で力を持っていたのが「西郷隆盛」「桂小五郎(後の木戸孝允)」。そこに長州藩の「坂本龍馬」が手を組み「薩長同盟」が生まれたのです。薩長同盟が作られたことによって幕府を倒そうという動きが始まりました。
江戸城無血開城
この時代、もちろん江戸城は、長く続いた「徳川家の本処置」でした。1868年に徳川家が江戸城を新政府に明け渡したことを「江戸城無血開城」と言います。
元々新政府は、徳川家を滅ぼすために江戸に侵攻していたんです。しかし、篤姫と和宮は、新政府に対して「江戸を攻めるのはやめてほしい」という手紙を書いてお願いしていたと言います。だからと言って新政府があっさり引き下がるわけもありません。西郷隆盛が旧幕府と交渉していましたが、新政府は少しずつ江戸へと接近していました。
イギリスの外交官・パークス
ここで登場するのが、日本から遠く離れた「イギリス」の外交官・パークスです。パークスは、新政府に対して猛烈に抗議しました。「無抵抗の徳川慶喜を攻撃しようとするのは有り得ない!」と訴えたのです。イギリスを怒らせてしまうという事は、日本にとって「外国を敵に回す」という事になります。これで、新政府もやっと江戸城侵攻を諦めたのです。
隆盛と勝海舟の会談
3月14日に(江戸総攻撃の予定が3月15日とされていました)、旧幕府と新政府側の会談が設けられます。この時新政府側の代表はもちろん「西郷隆盛」、そして旧幕府側の代表は「勝海舟」でした。このとき、西郷隆盛が旧幕府に提案した降伏条件がこちらです。
一、徳川慶喜は謹慎のうえ備前藩に身柄を預けること
一、江戸城は明け渡すこと
一、軍艦はすべて渡すこと
一、武器はすべて渡すこと
一、江戸城内の幕臣は向島に移り謹慎すること
一、慶喜の挙兵に手を貸した者たちは厳重に取り調べ謝罪させること
一、旧幕府の者は自ら取り慎めるようにし、もし暴挙をなして手に負えない者があれば新政府軍が鎮定すること
右の条々を速やかに実行すれば、徳川の家名存続については寛大な処置をおこなうこと
この中で、勝海舟は第一条の「慶喜の身柄を備前藩に預けること」だけは、どうしても承諾できず、次のように書き替えました。
一、隠居のうえ水戸で謹慎なされること
なぜなら、水戸は慶喜の故郷であったのです。
これを、新政府側の西郷隆盛らが承諾し、ギリギリのところで江戸城総攻撃は中止となり、江戸城は新政府に明け渡され「江戸城無血開城」という、歴史的偉業が成されました。
廃藩置県
江戸城無血開城から3年後の1871年。西郷隆盛が実行した偉業の1つである「廃藩置県」が実行されます。これ以前は「幕藩体制」が主流でした。
1869年、全国の藩主に版(土地)と籍(人民)を新政府に返上させた改革を「版籍奉還」と言います。これは、明治新政府の木戸孝允と大久保利通が作ったものです。そして1871年、廃藩置県となり、府と県の数を3府302県から3府43県まで減らしたのです。3府とは、重要な役割を行う場所として「東京」「大阪」「京都」とされました。明治政府は、中央集権化を目指していたのです。木戸孝允や大久保利通は、鹿児島に居た西郷隆盛を東京に呼び寄せ、隆盛が改革を断行したのです!
西郷隆盛の年表
1828年 | 0歳 | 鹿児島県城下の下加治屋町山之口馬場で1月23日に生まれる。幼名は小吉という。 |
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1833年 | 5歳 | 松本覚兵衛から儒学を学ぶ。 |
1839年 | 11歳 | 祭りの帰り道、横堀三助に売られたケンカに勝ったことを逆恨みされ、後日、刀で襲われ剣術を諦めざるを得なくなる。そこから、学問に精を出す。 |
1844年 | 16歳 | この歳で働き始め、藩の「郡方書役助」になり、上司は迫田利済であった。 |
1852年 | 24歳 | ・伊集院兼寛の姉スガと結婚 ・父、吉兵衛死去。 ・母、マサ死去 |
1854年 | 26歳 | 薩摩藩の殿様、島津斉彬に仕える。隆盛は、島津斉彬への忠誠心がとても大きく、斉彬が亡くなったときは、後追い自殺までしようとした。 |
1864年 | 36歳 | 禁門の変で隆盛は薩摩藩を率いて、長州藩に勝利する。 |
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1866年 | 38歳 | 坂本龍馬、木戸孝允らと薩長同盟を結ぶ。 |
1868年 | 40歳 | 江戸幕府、旧幕府側だった勝海舟と交渉し、江戸城無血開城に尽力する。 |
1871年 | 43歳 | 岩倉使節団が欧米視察のため出発。隆盛は、留守政府を任された。 |
1873年 | 45歳 | 明治政府をやめて、故郷である鹿児島に帰る。(明治六年の政変) |
1874年 | 46歳 | 鹿児島に私学校設立。 |
1877年 | 49歳 | 西南戦争を起こすが、戦いに敗れ、城山で仲間に斬首を命じる形で自害する。 |
西郷隆盛の人柄について
西郷隆盛を語る上でよく使われる表現が「気は優しくて力持ち」ということ。体がずば抜けて大きかったことは有名ですが、それと同じか、それ以上に人間としての器が大きかったのです。とても仲間思いで、友人たちからの信頼は厚かったと言われています。
その一方で、自分の信念や想いは、どんなことがあっても決して曲げることができず「頑固者で融通が利かない人物」だったとも言われているのです。仲間や味方に対しては、大きな包容力で絶大な人望がありましたが、敵に対しては厳しい処罰を与えることも有名で「二面性」を持った性格とも言えますし「白黒はっきりした性格」とも取れるでしょう。
禁門の変
禁門の変は別名「蛤御門の変」とも言います。幕末1864年、7月19日に起こった戦いです。「長州藩」VS「会津藩」「薩摩藩」「幕府」の抗争でした。長州藩の本陣は1箇所ではなく点在しており「天王山」「天龍寺」「長州藩伏見藩邸」の3つに分かれていたんです。その中で、西郷隆盛は「天龍寺隊」と戦うこととなりました。隆盛は兵隊たちをうまく使いこなし、見事長州勢を退けたのです。この戦いでまた、薩摩藩兵の強さと隆盛の指揮が際立ちました。
明治維新
1868年、江戸幕府に代わり新しく誕生したのが「政府」です。日本は、近代国家に生まれ変わるために「五箇条の御誓文」を発表しました。「江戸」と呼ばれた都は「東京」となり、年号を「明治」として、スタートを切ったのです。これを「明治維新」と呼びます。過去に民衆を苦しめ続けた「身分制度」を廃止し、結婚や仕事が自由にできるようになったのも、この「明治維新」以降となります。外国の人々が思い浮かべる「日本人はちょんまげに刀を持っている」という風習を廃止したのも、この時です。
どのような最期を迎えたか
それでは、隆盛はどのような最期を遂げたのでしょうか?
西郷隆盛は西南戦争を起こす気など毛頭ありませんでした。しかし、隆盛が造った「私学校」が政府から目を付けられ、政府から私学校いスパイまで送り込まれます。隆盛を慕っていた士族は激怒します。
このように、行き違いがあり、生徒たちの思いは爆発するのです。西郷隆盛を慕う生徒たちは東京へと進軍します。この途中で「田原坂の戦い」が起こります。それは、壮絶な戦いとなりました。しかし、新政府軍もこの動きを読み切り、薩摩藩は大敗します。隆盛の本拠地は政府に侵略されました。このとき、薩摩軍「372名」VS新政府軍「5万人」でした。
1877年9月24日、新政府軍が隆盛たちが身を潜めていた「城山」の洞窟の近くまでやって来る。隆盛と薩摩兵たちは、逃げずに潔い死を選びます。最後の突撃の場面で、近くにいた「別府晋介」に自分の首を切ることを頼み、49歳でこの世を去ったのです。隆盛の首をはねた別府晋介も、この直後に切腹したとされています。
西郷隆盛のマメ知識
それでは最後に、知っているとちょっと役立つ「西郷隆盛」についてのマメ知識を、いくつか紹介します。
銅像が全く似ていないって本当?
西郷隆盛の銅像が建てられた明治31年12月18日の除幕式の際、妻であった「糸子」が言った言葉が「あれまあ!うちの人はこんなお人ではなかったのに!」と叫んだとされています。この話が広まり、銅像の人物は隆盛とは全く似ていないということとなりました。
3度の結婚と肖像画
隆盛は、英雄として取り上げられることの多い人物ですが、実は3度の結婚歴があり、2度も島流しにあっています。
離婚の原因ですが、1人目の妻「スガ」は、仕事で不在がちの隆盛と一緒に居たら苦労すると、スガの両親からの申し出があったそうです。2人目の「愛加那」とは、島流しされた時に出会い結婚しましたが、島の女性はその島から出ることは許されないという決まりがあったため、隆盛が島を出る際に離婚となったのです。
そして、皆がよく見る「西郷隆盛」の肖像画のモデルは、なんと「西郷従道」(隆盛の弟)と「大山厳」(隆盛の従弟)の顔を合わせて書かれたものであり、本人の顔を見て書かれた肖像画や、本人の写真は1枚も残されていないのです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
最後に西郷隆盛の歴史を振り返ってみましょう。
・11歳の時に負わされた大怪我で、剣術を諦め学問に精を出す。
・36歳、禁門の変で薩摩藩を従え、長州藩に勝利する。
・38歳、坂本龍馬や木戸孝允と「薩長同盟」を結ぶ。
・40歳、勝海舟と交渉し「江戸城無血開城」を成し遂げる。
・43歳、留守政府を任される。
。46歳、鹿児島に私学校を設立。
人々から愛され、リーダー的存在だった西郷隆盛について、理解することはできたでしょうか?「気は優しくて力持ち」と言う言葉が、西郷隆盛の人柄を象徴していますよね。西南戦争で壮絶な最期を遂げましたが、今も尚、西郷隆盛の偉業の数々は語り継がれています。幕末のヒーローであった隆盛のように、心の大きな人間になりたいですね。